江戸のブランド 美しい「高砂染」に諸説 姫路藩の歴史ロマン | ラジトピ ラジオ関西トピックス

江戸のブランド 美しい「高砂染」に諸説 姫路藩の歴史ロマン

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 姫路藩の特産品として江戸時代に作られていた「高砂染(たかさごぞめ)」が、「姫路市書写の里・美術工芸館」で展示されています。

 当時、幕府へ献上する“ブランド品”として使われた高級な染物で、同館では『高砂染展-播磨の型染、ことほぎの美-』として特別展を3月22日まで開催中です。
※3月5日から3月19日まで、新型コロナウイルス感染予防のため休館が決定=3月4日に発表
※引き続き3月26日まで臨時休館=3月17日に発表



 特別展の担当で同館学芸員の岡崎美穂さんに高砂染の歴史を詳しく教えていただきました。

【江戸時代後期頃の高級絹 製型染】
 高砂染として、現在残っているのはほとんどが木綿製ばかりですが、江戸時代には縮緬などの絹製が多く作られていたことが文献資料からわかっています。はじまりには、かつて姫路藩領地であった高砂の地で尾崎庄兵衛がはじめた説と、姫路東紺屋町の相生屋勘右衛門がはじめた説があります。もとは「おぼろ染」であったとか、「松影染」とも呼ばれていたとかいわれていますが、どちらの説にも時代の裏づけなどが伝承としてしか把握できず、詳しいことはわかっていません。現存資料も少なく「幻の染物」ともいわれます。

高砂染 木綿地各種 姫路市書写の里・美術工芸館蔵
高砂染 木綿地各種 姫路市書写の里・美術工芸館蔵

【新発見資料、大奥への献上記録】
 姫路藩・酒井家七代忠顕(ただてる)が、江戸入府にあたって姫路藩特産物を大奥に届けています。その人物は、大奥最高のキャリアウーマンのひとり、江戸幕府十三代十四代将軍付御年寄の瀧山です。日記には、高砂染の記載があわせて13回ありました。現存資料としては木綿の端切れ布ばかりで、さして価値がないと思われがちな高砂染が、日記によると革より先に書き出されていて、珍重されていることが分かります。

 そして、女中「みわ」の退職で「たんす代り高砂染一反」という記載がありました。慶応4年の退職者の数に対して、退職金として下賜する品が足りなかったのでしょうか。箪笥一棹に相当する物として、一反の高砂染が贈られたという事実から、当時の高砂染が高級品として認識されていたことが明らかになっています。

「万延元(一八六〇)年五月十五日 雅楽頭様より文庫之内/高砂染一反/姫路皮二枚/交さかな一たい/右者参府ニ付御貰い申ス」『大奥御年寄瀧山日記』瀧山家蔵
「万延元(一八六〇)年五月十五日 雅楽頭様より文庫之内/高砂染一反/姫路皮二枚/交さかな一たい/右者参府ニ付御貰い申ス」『大奥御年寄瀧山日記』瀧山家蔵

 このほか瀧山への高砂染の贈り主として、姫路藩主酒井忠学(ただのり)の正室である晴光院や晴光院の上臈、そして晴光院の息女で酒井忠宝の妻である喜光院らの名前が判明しています。

【姫路藩領内のにある高砂神社にある相生の松がモチーフ】
 高砂染のデザインは、松葉、松かさ、木の下から見上げたような松枝柄が特徴的です。幸せな結婚を象徴する松の精霊・尉(じょう=おじいさん)と姥(うば=おばあさん)。それぞれ手に持っているのは熊手と竹箒。

高砂染布の部分(尾崎家蔵)
高砂染布の部分(尾崎家蔵)

【型染という技法】
 高砂染は、丈夫な和紙に柿渋を塗ったものを彫刻刀で彫り抜いた型紙を使う「型染」という技法で作られています。江戸時代には、型紙を2枚使って、布地の白とあわせた3色に染めていました。近世に発達した型染は、柿渋を引いた地紙を彫刻刀で彫り抜いた型紙を用います。

 紀州藩の庇護によって、伊勢の地が型紙制作の中心地として発展し、型売り商人が全国的な販路を構築しています。姫路の場合は同じ播州の三木を拠点とする型屋を媒介して型紙を注文することが多かったようです。手間がかかる優れた技術です。

【二枚の型紙を使う高砂染の染め方】
 この型紙を使う高砂染の染め手順は、まず布地に一つ目の型紙を置き、糊防染をして地色(鼠色)を染めます。

一枚目の型紙(熊手竹箒・松葉文)。糊防染を施し、一回目の染色(鼠色)を行う
一枚目の型紙(熊手竹箒・松葉文)。糊防染を施し、一回目の染色(鼠色)を行う

 糊を置く熊手竹箒と松葉は最後まで、元の布地の白いままで残ります。引き染めという刷毛で染料をのせる染め方をします。次に糊を洗い落とさずに二つ目の型紙(松枝文が多い)を置いて糊防染し、引き染めします。二回目の糊部分は一回目の染め(地色の鼠色)で残ります。

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