近畿地方の一番大きな大名は浅井氏。信長の妹と結婚しているので同盟はできているものの、浅井氏は越前の朝倉氏と結び信長と対立していましたが、1570年姉川の戦いで浅井・朝倉を倒します。
次なる勢力は寺院勢力。姉川の戦いの翌年に寺院勢力の一番大きな比叡山を焼き討ちにします。
浅井が負け、比叡山が焼かれたことにより近畿地方の戦国大名や寺は信長に抵抗できなくなります。
ところが信長は中部から動きませんでした。理由は、中部地方の東、信長の背中を狙っている甲斐国の武田信玄です。信長は京都に入り周辺の大きな勢力を叩いたものの本拠は岐阜稲葉山から移さず武田を警戒していたのです。
その警戒通り1572年に武田信玄がいよいよ甲斐国から諏訪湖へ、天竜川を下って京都へ行こうとやってきます。
信長は、三河から出て遠江、静岡の西部、浜松のお城にいた弟分の家康と結び、武田の勢力と戦いますが三方ヶ原の戦いで完璧に負けてしまいます。
ところが勝った武田信玄は体調を崩し元気回復のため故郷へ帰って行ってしまうのです。そのため信長も家康も命拾いをするわけです。
それでも信長は近畿へ軸足を動かしませんでした。武田が怖い!
信玄が亡くなったあと息子の勝頼が跡を継ぎ、信長と戦ったのが1575年の長篠の戦いです。
ご承知のように大量の鉄砲とバリケード、馬を塞ぐ馬房策を使い信長が武田の軍勢を1575年に長篠の戦いで討ち破ると、もう怖いものはなくなり翌1576年に近畿地方に軸足を移し安土にお城を築きます。
『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年4月9日放送回