光秀と兵庫丹波、その関わりとは | ラジトピ ラジオ関西トピックス

光秀と兵庫丹波、その関わりとは

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 その途中、姉川の戦いの3年後の1573年に浅井長政を滅ぼし、同時にもう看板なしでも自分の力で行けると反信長の動きをしていた15代将軍足利義昭を1573年に京都から追放してしまいます。これが「室町幕府の滅亡」です

 安土を本拠地にして、中部・近畿を抑えた信長は東・西へ勢力を伸ばしていきました。

 東の勢力は太平洋側に徳川家康。日本海側に柴田勝家という弟分の家老を置き、西は中国の毛利。新しい部下の羽柴秀吉が瀬戸内海、つまり、山陽方面で毛利攻撃をします。

 このとき、日本海側山陰方面で毛利に食い込ませようとしたのが信長の新しい家老の一人、明智光秀でした。京都の西、山陰道の入り口が丹波ですから、丹波に入ってくるのです。

 当時、丹波には丹波市(旧氷上郡)に赤井直正そして現在の丹波篠山市(旧多紀郡)に波多野秀治がいました。

 こういう戦国大名たちと明智光秀が信長陣営の前線司令官として対峙していくことになるのです。


『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年4月9日放送回

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