明智光秀ゆかりの地として注目される兵庫丹波の歴史、日本遺産、文化施設、食文化、地域活性に活動される方を多目的に取り上げる『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』(ラジオ関西)。4⽉16⽇の放送回では、交通路をもとに、『光秀の時代と丹波』についてを語ります。「兵庫・神⼾のヒストリアン」として活躍する⽥辺眞⼈・園⽥学園⼥⼦⼤学名誉教授のお話を、ともに番組を担当する久保直⼦さんがまとめました。
◆『光秀の時代と丹波』
丹波国は奈良時代に入る前までは11の郡がありました。
713年に北側の5つの郡が丹後国(都から遠い方)になり、丹波国には6つの郡が残りました。そのうち一番西南にある多紀郡と氷上郡が兵庫県。それ以外の4つの郡、何鹿(いかるが)、天田、船井、桑田は京都府。兵庫県に属しているのは丹波国の西4割です。
「丹波篠山、山家の猿が花のお江戸で芝居する」というデカンショ節を聞くと、山の中で辺ぴなところのように聞こえますが、丹波は重要な交通の要所です。
太平洋側の海岸沿いの交通路と日本海側の東西の交通路を結ぶのは、山越えの南北道です。
兵庫県の丹波には「水分れ公園」があります。この水分れ公園から西には加古川の上流である高谷川があります。加古川は太平洋につながっています。北側は黒井川から由良川に流れ込み、若狭湾(日本海)に入ります。
本州には北から南まで分水の峰がありますが、水分れ公園のところが日本で一番低い分水嶺です。海抜90メートルほどで、神戸ポートタワー(108メートル)より低いので、太平洋から日本海へ荷物を運ぶときにとても楽だったんです。
車も鉄道もない時代は舟で荷物を運んでいました。現在の丹波市の石生(いそお)を越えさえすれば日本海と太平洋を結ぶことができました。
『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年4月16日放送回