家清の弟・直正は、兄が赤井家を継いだため、春日側の荻野家の養子に入りましたが、1554年に荻野家の当主、(おじにあたる)荻野秋清を刺し殺し、荻野家の中心である黒井城を奪い取ってしまいます。こうして(赤井家は)春日と氷上の両方をおさえる勢力になりました。
1560年にここへ遠阪峠を越えて但馬の軍勢が攻め込んできます。1560年という年はどんな年でしたでしょうか? 桶狭間の戦いの年ですよ! ちょうど信長が存在を知られる頃に、赤井直正が現在の丹波市側で大きな勢力を握り、侵入してきた但馬の太田垣の軍勢を追い返して、逆に遠阪峠を越えて但馬まで攻め込んでいき、一時は『雲海の城』で有名な竹田城も攻略してしまうんです。
直正は、さらに福知山方面にまで勢力を伸ばし、およそ12万石というような相当大きな勢力になっていきました。
そこへ、1570年代に入ると、信長勢が丹波へやってきたといわれています。信長は中部の武将で、近畿へ(はせ参じる)という時に、その反対勢力は戦国大名と僧兵と一向一揆。信長は反対派の浄土真宗の村との対決が続いていくわけですね。
ただ、反対勢力は、姉川の戦い(1570年)で戦国大名が一番強いのが(信長側に)やられたのだから、文句は言えない。延暦寺もやられたのだから、お寺も文句を言えないということになっても、まだ信長はこっち(西)へ移ってこないんです。
なぜか? 背中の武田が怖かったから。1575年に長篠の戦いで武田勝頼を討つと、もう信長は背中を恐れることもなくなります。中部は大丈夫、近畿も抑えたとして、本格的に畿内から中国へという道に進みます。この時の瀬戸内の山陽道の司令官が羽柴秀吉で、日本海側の山陰道の司令官には光秀が任命されてここ(丹波)へやって来るんです。
このとき、赤井も波多野も明智軍に降伏するんです。ところが1年ほどで準備を進めて、黒井城が反乱を起こすと、寝返りをする。そこで光秀にもう一度ここに攻めてこられるのですが、多紀郡の波多野が赤井と通じ、後ろから襲う「赤井の呼び込み戦法」で追い払います。
それでも、1577年に光秀は、細川藤孝などとともに、もう一度丹波へ来るわけですね。その、丹波攻めの最中、直正がわけのわからない病気になって50歳で死んでしまいました。はたしてそれが病気なのかどうかは、わからないですね……。
そして直正が亡くなったあとは、赤井家がそれほど振るわなくなり、多紀郡側の八上城も攻撃されて、足掛け3年ほど包囲されたのちに落ちていきました。(田辺)
『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年11⽉12⽇放送回音声