中部から畿内に侵攻した織田信長と近江国の歴史的意味を探る | ラジトピ ラジオ関西トピックス

中部から畿内に侵攻した織田信長と近江国の歴史的意味を探る

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 明智光秀ゆかりの地として注目される兵庫・丹波について、歴史をはじめ多目的に取り上げる『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』(ラジオ関西)。2021年1月14日放送回のテーマは「中部から畿内に侵攻した信長・近江国の歴史的意味」。番組パーソナリティーで「兵庫・神戸のヒストリアン」として活躍する田辺眞人・園田学園女子大学名誉教授が歴史トークを展開しました。

◆中部から畿内に侵攻した信長

 尾張の武将だった織田信長が永禄3(1560)年の「桶狭間の戦い」で東海の雄・今川義元を撃ち、首を取って、信長の存在を全国に知らしめることになりました。

 ところが足元を固めるのに長い時間がかかっています。舅(濃姫の父)が治めていた美濃国、稲葉山城を攻め落とし、その地を「岐阜」に改めたのが、7年後の1567年のことです。翌、元禄11(1568)年に基盤がゆらぎ、弱くなってしまっていた室町幕府をなんとか支えようと足利義昭を連れて京都に入り15代将軍にするわけです。

 中部地方から来た信長に対し畿内(当時の首都圏)の戦国大名、僧兵、農民たちからは反発がありました。そこで元亀1(1570)年「姉川の戦い」で北近畿の有力武将だった小谷城の浅井長政と(浅井と結んだ)越前の朝倉氏とを撃ち破り、さらには翌年に比叡山を焼き討ちします。

 それでも、信長はまだ岐阜を本拠地にしていました。“背中の”武田が怖かったからです。信長の恐れどおり、比叡山焼き討ちの翌年に武田信玄が動き出し、山梨(甲斐)から天竜川を下って、今の静岡・浜松の北方へ攻めてきました。

 この元亀3(1572)年の「三方ヶ原の戦い」では、浜松にいた徳川家康と同盟を結び、織田・徳川の連合軍が武田勢と戦いますが、逆にコテンパンに負けてしまいます。ところが勝利を治めた武田信玄は、その後、体調を崩し、山梨に帰ってしまいます。

 翌、天正1(1573)年、信長は足利義明を追放。室町幕府の滅亡です。

 こうして京都辺りまで影響力を及ぼしながら、まだ本拠は岐阜に。武田信玄が亡くなったものの息子の勝頼の勢力を警戒していたからです。

 天正3(1575)年の「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍が大量の鉄砲とバリケード、馬防柵を活用し攻撃。信長側は大勝利をおさめます。実に永禄3(1560)年の「桶狭間の戦い」から15年がかかっています。


『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2021年1⽉14⽇放送回音声

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