これに対して明智光秀は京都から山陰道を丹波国から西へと進みます。この時に丹波にやってきて多紀郡の波多野や氷上郡の赤井直正と対立。
ところが毛利は戦略と同じくらい「調略」を重んじました。「戦略」が戦って土地を略奪するのに対し、うまく話し合いで味方を増やすというのが「調略」です。この毛利の「調略」に乗って、三木の別所や伊丹の荒木が毛利方につき、秀吉は孤立し、三木城の攻撃のためにその後、約1年半ほど費やすことになります。
この時期に赤井直正たちが明智光秀と対立していくことになり、この対立の中で八上城の波多野氏が明智光秀の奨めにより、信長に降伏する時、光秀は自分の母親を八上城に送って人質にし、安土の信長のところへ謝りに行けと波多野氏兄弟を送るのですが、信長が波多野兄弟を殺してしまったため、人質だった光秀の母も殺されるという無残な結果となってしまいます。
1582年には丹波まできていた明智光秀が突然!京都に向かって進軍し、本能寺まで来ていた織田信長を攻め滅ぼしてしまいます。(本能寺の変)
明智光秀からすれば、ある程度計算していたのでしょう。娘は細川藤孝の息子に嫁ぎ親戚ですし、大和の筒井順慶も自分の味方をしてくれるだろうとの思いがあったでしょうが、実際には誰もついてきませんでした。
◆信長の首を取れなかった光秀
信長の計算か偶然かはわかりませんが、本能寺に火をかけられ、信長は火の中へ入って行ったと言われています。首がないので信長の死は確信が持てなかったのです。やはり、「桶狭間の戦い」で信長が今川義元の首を取ったということは大きいんですよ。
◆天下布武を支えてきた主君信長を攻撃したのはなぜ?
ひとつは八上城で自らの母親を人質にして波多野氏を安土に行かせたにも関わらず、信長が波多野氏を安土で処刑してしまい、人質にしていた母が殺された八上城のうらみの仕返しだったという説。
もう一つは明智光秀は教養人で、保守的なため、将軍の意向や天皇という存在を尊敬するのに対し、信長はかなり革新的で、将軍までも追い出してしまったくらいですから、ひょっとすると天皇までもという……。キリスト教が伝わってくると全く違った価値観も誕生します。
『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2021年1⽉21⽇放送回音声