明智光秀ゆかりの地として注⽬される兵庫・丹波について、歴史をはじめ多面的に取り上げる『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』(ラジオ関⻄)。2021年2⽉4⽇放送回のテーマは「丹波市のまとめ」です。
多くの皆さんの協力のもと、広範囲にわたるロケや地元の方々のお話、「兵庫・神戸のヒストリアン」として活躍する田辺眞人・園田学園女子大学名誉教授の歴史レクチャーなどで進めてきた番組も、終盤に差し掛かりました。今回は番組の総括<その2>として、光秀と深いかかわりのあるまち、丹波市についてのトークを振り返ります。
◆「丹波市は旧氷上郡ですね」
実際に丹波市に行って感動したことがあるんです。古代では、土地の農業を育てる魂のことを「ひ」と言い、農業を支える中心的な川を”ひの川”と呼んでいました。ヤマタノオロチの話にも、ひの川が出てきます。加古川の最上流は丹波市にありますから、「ひ」の上で「ひかみ」。氷という字があてられました。今までも理屈ではわかっていたのですが、実際に足を運び、土地の人から、加古川(丹波地域の)のことを「ひのかわ」と言っていると聞き、大変感動しました。(田辺先生)
◆「柏原はもう一度行きたい場所です」
(2020年7月23日放送回)
柏原には「雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡」の句で有名な女流俳人・歌人の田ステ女の記念館があります。併設されている丹波市立柏原歴史民俗資料館には歴史資料も展示されています。江戸時代初めの古い地図を見ると、「柏原」は木へんに「白」ではなく、木へんに「百」になっています。栢(かや)の実の「栢」の一本がとれて、「柏」になったのでしょう。古くは”かやはら”でした。
柏原藩は織田家が治めました。一番最初は信長の弟、信包(のぶかね)が藩主となり三代で跡が途絶え、幕府の直轄領に。その後、信長の息子の子孫(信休)が奈良県から移動し再び織田家が治めました。幕府は織田家を城主にしなかったため、城ではなく陣屋跡があります。木の根橋のすぐ近くには、織田神社もあります。
◆「兵主神社の裏側の鏡石がとても印象に残っています」
(2020年7月2日放送回)
兵主神社の中心はあの鏡石のあたりだったのでしょうね。兵主とは、武器の神様。律令国家では武器を守るためにまつられ、やがて黒井の山城ができると、戦いのために崇めたのでしょう。
※今回、話題に上った放送回を記しました。この他にも番組では丹波市にまつわるお話をたくさんご紹介しました。お世話になった皆さまに心から感謝申し上げます。ぜひ、ラジトピ一覧でも振り返ってみてくださいね。
『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2021年2⽉4⽇放送回音声