神戸人形の魅力とは 「海を渡ったお化けたち」 リモート・ミュージアム・トーク(下) | ラジトピ ラジオ関西トピックス

神戸人形の魅力とは 「海を渡ったお化けたち」 リモート・ミュージアム・トーク(下)

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 戦争が激しくなる昭和17(1942)年、太四郎は、郷里の岡山県後月郡(現在の井原市)へと疎開し、昭和25(1950)年に病没するまで、甥の静夫や数名の職人とともに「神戸人形」を作り、神戸へ送り続けていました。戦後、元町の玩具店「キヨシマ屋」の店主は、何度か岡山まで、商品をとりに行ったことがあると語っています。物資が乏しい戦中戦後の「神戸人形」は、象牙や牛の骨製ではなく、白絵の具の描き目になっていますので、その点に注目いただくと、戦前のものとの違いがわかります。

戦中戦後の「神戸人形」—象牙製の目ではなく、描き目になっている
戦中戦後の「神戸人形」—象牙製の目ではなく、描き目になっている

●神戸人形が欧米人に愛された理由

 日本人が自ら思う日本らしさからは少し隔たった感のある「神戸人形」——なぜ、「神戸人形」は、海外からの旅行者に日本土産として愛されたのでしょうか。「神戸人形」を収集する欧米の方々にそんな質問をぶつけてみると、――(1)創始期の作品にみられる繊細なからくりにひかれる、(2)素材(柘植や象牙)加工の美しさとお化けや鬼といった題材がファンタジーに富み、神秘的な日本のイメージをかもしている、(3)漆器を思わせる黒と赤のコントラストが素晴らしい――そんな答えが返ってきました。

 また、当時は円高で、1個あたり80銭ほどの「神戸人形」は、海外からの旅行者にとっては安い買い物であったこと、手のひらにのるサイズは、トランクに収まりやすく携帯に便利という要素もあったでしょう。小田太四郎は、注文を受けるギフトショップを通して、欧米人の感性や要望を知り、より売れる作品を考案し、購買客のリクエストやニーズに合わせた商品づくりを行っていたものと思われます。創始期において、個人が生み出す“手工芸品”であった「神戸人形」が、量産される“商品”の体裁を整えていったことが理解されます。

「猿の親子」の台底にイギリス・リバプールのJOHN A.WILL氏の名刺が貼られている。 1909(明治42)年のクリスマスにJOHN氏(Jackは愛称)から姪に贈られたものと考えられる。
「猿の親子」の台底にイギリス・リバプールのJOHN A.WILL氏の名刺が貼られている。 1909(明治42)年のクリスマスにJOHN氏(Jackは愛称)から姪に贈られたものと考えられる。

「神戸人形」が日本人に愛され、主に日本人に購入されるようになるのは戦後のことで、戦前の購買層は、主に欧米からの外国人観光客でした。祖父から父へ、父から子へ、子から孫へと家族的なつながりで受け継がれる郷土玩具とは異なり、「神戸人形」は、このからくりにひかれる有志によって模倣的に作られ、自己表現を織り込んで発展をみたものといえます。そこには、地方から夢をもって様々な人たちが集まってきていた神戸の下町ならではの地域性が表れており、一方で貿易港を有する国際都市なればこその先進性と近代性が反映されています。

 現在開催中のテーマ展「神戸人形賛歌~ミナトマチ神戸が育てたからくり人形~」では、戦前の古作品、150点をにぎやかに展示していますので、4月下旬に出版される書籍『神戸人形賛歌』(吉田太郎著・日本玩具博物館協力/神戸新聞総合出版センター刊)と合わせてお楽しみいただければ幸いです。(日本玩具博物館 学芸員・尾崎織女)                                   

春夏のテーマ展「神戸人形賛歌」展示風景
春夏のテーマ展「神戸人形賛歌」展示風景

■日本玩具博物館
〒679-2143 兵庫県姫路市香寺町中仁671-3
電話 079-232-4388
FAX 079-232-7174


【公式HP】
【春夏のテーマ展「神戸人形賛歌~ミナトマチ神戸が育てたからくり人形~」(公式HPより)】

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