滋賀県信楽町(現・甲賀市)で1991年に起きた信楽高原鉄道事故の遺族と出会う。明石歩道橋事故のちょうど10年前に信楽の事故は起きた。下村さんが事故後、何をどうしたらいいのかわからない、食事も喉を通らない、憔悴(しょうすい)した日々を送っていた時、ある会合に顔を出した。緊張気味の下村さんに「まあ、弁当でも食べて落ち着いて。食べて体力をつけないと戦えない。話はそれから」。下村さんはそういった趣旨だったと記憶する。「胸につかえていた何かがスーッと抜けた」。下村さんはその後、裁判や講演会などで遺族の思いを積極的に発信、大規模事故の被害者支援制度が十分ではないと感じた。国土交通省の「公共交通事故被害者支援室」の設置にも関わる。そして信楽鉄道事故の遺族らが事故調査の充実を目指して設立した民間団体「鉄道安全推進会議」(TASK)の共同代表にも就いた(TASKは2019年解散)。
■泉 房穂・明石市長「市民の命を守るため、真摯に向き合う」これが責務
当時、一般市民として事故現場近くに居合わせた明石市の泉 房穂市長も献花に訪れ「まさにこの歩道橋の真下で、あの惨状を見た。『人が息をしていない』と助けを求める声、うめき声や鳴り響く救急車のサイレンの音…こんなことが起きるなんて信じられなかった。あれから20年、この事故は防げたという気持ちは変わらない。行政をつかさどる私たちが、市民の命を守るためどれだけ真摯に向き合えるか、ご遺族の思いに終わりがないように、明石市の責任にも終わりがない」と改めて気を引き締めた。
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歩道橋事故をめぐっては、業務上過失致死傷容疑について神戸地検に4度不起訴とされた兵庫県警・明石署元副署長が、処分は不当と訴える遺族の検察審査会への申し立てや検察審査会法改正を経て、全国で初めて強制起訴された。だがこの裁判では公訴時効成立による「免訴」判決が確定し、実質無罪という結末となった。
下村さんは「刑事司法が開けた」という期待と「刑事司法の限界」もこの20年で感じたという。神戸地裁で開かれた公判、元副署長への被告人質問で真実を知りたいと願った下村さん。しかし明確な証言が得られず、憤った。この頃から、刑事裁判という形ではなく「いかに事故を風化せずに語り継ぐか、事故を起こした当事者が取り組みを続けることが再発防止につながる」と訴えるようになった。そして加害責任のある明石市とともに、安全とは何か、ともに問い続けている。