こうした中、鏑木さんにチャンスが訪れる。2021年10月、三重国体と同時に開催される三重とこわか大会(通称「障がい者国体」)のオープン競技として、「セーラビリティ」という、アクセスディンギー、もしくは『ハンザ』というユニバーサルデザインのヨットを使って、障がいのある人はじめ、誰もが簡単にヨットを楽しめるように活動する福祉グループとセーリング仲間のレースがあり、視覚障がい選手のみで競い合うシングルハンド(1人乗り)のレースが日本で初めて行われる、そんなニュースを2021年2月、フェイスブック(Facebook)で見つけたのだ。
これまでセーラビリティのヨットレースには、何度か参加したが、ほとんどいつも健常者や他の障がいを持つ方とのダブルハンド(2人乗り)だった。目が見えにくいため、シングルハンドだと、他のレース艇にぶつかりそうで恐怖感が増す。しかしこれは、同じハンデを持つ選手のみで行われるレース。互いの事情をよく知っている仲間同士でなら、あまり気を張らずに参加できそうだ。しかも、シングルハンド。これは、日頃の練習の成果を試す絶好のチャンスだと思い、すぐに参加を決めたという。そして日本で初めての試みとなるレースがどのような形になるのか、直に感じたい、という気持ちもあった。
今回のレースに出ることを決めてから、週に1度のヨットセーリングの練習にますます熱が入るようになった。ヨットレースは大変奥が深い。海に浮かべた複数の”ブイ”(浮標)をヨットで周回する速さを競うゲームだが、弱視の鏑木さんには、遠くにあるブイは見えない。いったい、何を頼りにして、目標物のブイにたどり着くのか?
それは「風向き」と「音」。 鏑木さんが説明する。
「まずは『風向き』。ヨットレースでは、目標物のブイは必ず、風上と風下に浮かべます。その2つのブイの間を往復するのですから、顔に向かい風を感じて走れば風上側のブイに、背中に風を感じて走れば風下側のブイに近付けるのです。次に『音』。目視でわからなければ、耳を、ということで、音の目印として、ブイに防犯ブザーを取り付けることにしました。このブザーの音を頼りにブイに近付いて、周回するのです」。
三重とこわか大会で行われるレースでは「音声ナビ」が使われる。カーナビにも使われているGPSを活用したナビ装置です。これは、ブイのある方向とそこまでの距離を自動音声で伝えてくれる「優れモノ」。これがあれば、例え風が弱くて、体に感じにくい日でも、ヨットの進むべき方向がわかるので安心だという。鏑木さんは、この装置をまだ一度も使ったことがないが、これから行われる予定の練習会や、本番で体験するのが楽しみだという。
鏑木さんはこの夏、レースに向けて、腕の筋力トレーニングに励んでいる。「ヨットをより早く走らせるためには、風に打ち勝つ腕の力とスタミナをつけて、レース当日は、とにかく体調を整えて、全身の感覚を研ぎ澄ませ、持てる力を十二分に発揮して悔いのないセーリングをしたいです。そして優勝したいです」と意気込む。またレースを通じて、他の選手の方々、同じ障がいを持ち、頑張っている仲間と交流を深めたいと、国体を心待ちにしている。
そして「私の生き甲斐は、 自立した生活、 ヨットセーリング、愛情深い夫の存在、 目が見えにくい私が、これだけの物を持ちえたという喜び、感謝、誇り」と微笑んだ。そして「仕事をしているからこそ享受できる自由と、幸福を感じる時間が沢山あることが心の支えになっている」と話した。