「野坂さんと同じ体験をした、同じ時代を生きた身としては、節子と姿がだぶります。当時は神戸市灘区高羽に自宅がありました。空襲で防空壕に逃げ込むと、そこに幼い女の子が駆け込んだ様子を忘れない。みんな同じ体験をしたと思うのです。親が空襲で亡くなり、子どもが取り残され、親戚のおばのもとに引き取られ、栄養失調になっても食べ物は与えられず、周囲が助けることはなかった。痩せ衰える姿をしっかり覚えている。そんな子どもたちが多かったのです。戦争は本当に悲惨で無情なのです。自助努力でしかなかったのです。今、平和であることがありがたい」
6人きょうだいの次女だった上村さん(戦後、弟が死去)は、両親の大きな力でここまで来られたと振り返る。神戸での戦火をかいくぐった上村さんはその後、移り住んた西宮での空襲(1945年5月~8月・計5回)は鮮明に覚えているという。
「あの時(西宮空襲)私は、栄養失調の影響か、たまたま両足にできものがあって包帯をまいていたのですが、その包帯を取り換えるときにB29の轟音が聞こえ、慌てて防空壕に逃げ込んだのです、家も全焼しました。西宮・満池谷(まんちだに)にはお墓があって、1938(昭和13)年7月の阪神大水害の際に、石屋川(神戸市灘区)から石の山に流れてきた高級な御影石で墓標を建ててもらいました。それが父の自慢でした」
今年(2021年)は日米開戦(1941年12月8日)から80年。
「80年生きてきて、戦争の悲惨さを後世に伝える使命を感じます。私は終戦の年に4歳。辛うじて断片的にでも当時のことを覚えていますが、私よりも下の世代はもう記憶にないかも知れません。今、こうやって戦争・紛争のない、平和な日本になったのは、戦後、皆さんが並々ならぬ努力を続けてきたからです。私が生まれたのは日米開戦の約11か月前。私が生まれたとき、両親はまさか太平洋戦争がその年に勃発するとは思っていなかったでしょう」
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2020年6月、「火垂るの墓」の記念碑が、西宮震災記念碑公園(西宮市奥畑)内にできた。太平洋戦争末期の1945年、14歳だった野坂さんは幼い義妹と、この近くの貯水池「ニテコ池」(西宮市満池谷町)の近くにある親類宅や防空壕で過ごした。記念碑建碑実行委員会・代表の土屋純男さん(78)も歩く会に参加。参加者にレクチャーもした。「記念碑が戦争の記憶を語り継ぐ場になればと思います。戦争を語り継ぐことができる世代はもう限られていますから、私たちが元気なうちに1人でも多くの人たち、特に子どもたちへ戦争の悲惨さと平和への感謝の心を伝えていきたいです」と話す。