兵庫県には、文化庁が認定した「日本遺産」が9件、国指定史跡のお城が22城あり、いずれも全国最多を誇る。また、1000を超す城跡や播磨国風土記など、個性豊かな地域遺産を数多く有している。そうした兵庫の歴史を学びながら、周辺のおすすめスポットを計15回のシリーズで紹介する。
【第7回】兵庫の山城 黒井城
戦いの城「山城」。山の頂上付近にあって領地防衛のとりでとして、多くは戦国時代とそれ以前に築城された。丹波市春日町の黒井城もその1つ。14世紀前半に赤松円心の次男・貞範が、海抜356メートルの猪の口山に築いたのが始まりとされているが、注目されるのは戦国時代の終盤、織田信長の命で明智光秀が2度にわたり攻撃を仕掛けた戦いだ。
受けて立ったのは奥丹波の盟主・赤井氏から黒井城主の荻野家の養子となった直正。本丸の曲輪群が堅固な石垣で囲まれたこの城は、三方に伸びる稜線に城砦群を配した、全山要塞の戦国山城の典型だった。
「悪右衛門」「丹波の赤鬼」と恐れられた猛将・荻野直正も戦いのさなかに病死、代わって弟・幸家が赤井一族を指揮したが、1579(天正7)年8月9日ついに落城。黒井城跡は1989年、国史跡に指定された。
黒井城の始まりは、播磨を中心に備前と美作に勢力を張った赤松氏の築城からとされ、赤松氏5代の後、黒井城主に就いたのが、対立関係にあった丹波の赤井氏や同族の荻野氏。荻野秋清が黒井城主の頃、赤井氏は、家清の時に現丹波市氷上町本郷の後屋城を拠点に、氷上郡(現丹波市)のほぼ全域を支配する勢力に成長した。
後屋城主の赤井家清が弟の直正を黒井城主・荻野氏の養子に入れたところ、荻野姓を名乗った直正が、とんだ“謀反”を起こす。1554(天文23)年、何と外叔父で養父の荻野秋清を殺害して黒井城を奪ってしまったのだ。こんな暴挙から直正は「悪右衛門」と称され、勇猛ぶりから「丹波の赤鬼」と恐れられた。勢いづいた直正は、本家の赤井一族を統率、1565(永禄8)年には丹波守護代だった内藤宗勝を倒し、氷上郡のほか、京都丹波の天田郡と何鹿郡を制し、さらに丹後と但馬にも勢力を拡大した。
今の黒井城の遺構の大半は、この頃の改修とされる。破竹の黒井城主・荻野直正は、1570(元亀元)年、織田信長から奥丹波の氷上・天田・何鹿3郡の安堵を受けたにもかかわらず、逆に黒井城を本拠として、反織田勢力の一翼を担ったが、1578(天正6)年、数え50歳で病死した。直正の弟・赤井幸家が一族を統括したものの、1579(天正7)年8月9日ついに黒井城は落城し、明智光秀の丹波攻略が完了した。
【参考文献】
・兵庫県公式観光サイトHYOGO!ナビ
・文化庁日本遺産ポータルサイト
【兵庫県公式観光サイトHYOGO!ナビ】
【文化庁日本遺産ポータルサイト】
「歴パ!ひょうご地域遺産バトンリレー」アーカイブ記事
◆『歴パ!ひょうごの地域遺産バトンリレー』 2021年9月25日放送分