東日本大震災による東京電力福島第一原発事故で避難した住民らが国と東電に賠償を求めた福島、群馬、千葉の3つの訴訟で、東電に総額約14億円の賠償を命じた部分が3月2日に確定した。国の責任については今夏にも統一判断が示され、認められれば国は東電とともに賠償額を負担する。各地の避難住民が国や東電に賠償を求めた約30件の集団訴訟で、最高裁の判断は初めて。
東日本大震災の被災地からの全国の避難者数は約3万8000人にのぼる。(※2022年2月8日現在・復興庁調べ)
震災直後に母とともに福島市から関西へ避難した大学3年の小林茉莉子さん(21)が、ラジオ関西の取材に応じ、11年前のあの日を振り返った。当時小学4年、10歳だった。午後2時46分は、授業と終礼を終えて起立した直後だった。揺れの中「私の人生、これまでだ」と思った。でも不思議だったのは、避難訓練の時よりも冷静だったこと。クラスメートも無言で避難したのを覚えている。
自宅は福島第一原発から約60キロ離れていたが、高い放射線量が計測されていた場所もあったという。学校では校庭に出ることができず、肌を露出しないようマスクを着けて、長袖と長ズボン姿だった。子どもたちにとっての楽しい時間であるはずの休み時間、鬼ごっこもできない。ストレスはたまる一方だった。
その後、人生の半分以上を関西で(小学校時代から京都で)過ごしている。一方で、いったい自分は”京都の人なのか、福島の人なのか…”葛藤はある。自宅は福島にあり、父親や祖父母が住んでいる。
福島出身であることや、そこから避難してきたことは、友人には少し馴染んできてから話すようになった。関西にいる年数が長くなると、言い出しにくくなることもあった。しかし小林さんは重苦しい雰囲気ではなく、あえて普通に話すように心がけるようになった。
その時に必ず問われるのは「津波はどうだったの?」。「東日本大震災は、津波以外何も理解されていない…」原発のことは、ほとんど触れられることはない。
小林さんは最近、「私が、東日本大震災のことを覚えている最後の世代かも知れない」と思うようになった。小林さん自身が「ただ過去に起きたこと」という伝え方ではなく、「いつ起きてもおかしくない」という当事者意識を持ってもらえるような伝え方をしていく重要性を感じている。1月17日に阪神・淡路大震災の被災地、神戸を訪れるのも、そうした気持ちから。