太平洋戦争の終戦前日、米軍による最後の大阪大空襲で多くの命が奪われた「京橋駅空襲」。8月14日、惨劇から77年を迎え、被災者慰霊祭が大阪市城東区のJR京橋駅南口にある慰霊碑前で営まれた。
慰霊祭は1955(昭和30)年に始まり、例年は千羽鶴を奉納している地元の大阪市立聖賢小学校の児童らが作文を読み上げるなどしていたが、2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大防止を考慮して、規模を縮小している。
1945年(昭和20年)8月14日、米軍のB29爆撃機145機が来襲(第8次大阪大空襲)。ターゲットは大阪城の敷地内にあった大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)。6万5000人が動員された東洋一の軍需工場と呼ばれていた。B29爆撃機は650発もの爆弾を次々に投下、造兵廠一帯は壊滅的な被害を受けた。その際、1トン爆弾が近くの国鉄京橋駅を直撃し駅舎は吹き飛んだ。身元が判明した死者は210人、実際の犠牲者は500人~600人と推定されている。
特に今年は、ロシアによるウクライナ軍事侵攻や、台湾への威嚇とも受け取れる中国の大規模軍事演習といった世界情勢のもと、参列者は改めて核廃絶を願い、平和への思いを誓った。
終戦から77年が経過し、空襲被災者の高年齢化が進む。新型コロナウイルス禍で、炎天下での慰霊祭ということもあり、感染防止対策や体調を鑑みて参列を自粛する人も多く、慰霊祭世話人会(大阪市旭区)によると、当時の被災者に送付した案内状はのべ487通(被災者、遺族含む)。参加者は約200人と半数以下となった。
開催前から「体力的につらい」と、参列を見送りたいという連絡を受けた。しかし、そうした中でも「ウクライナの惨状を見ると、空襲を思い出す。ロシアは正義と思っていても、世界ではその思いは通用しない。当日は自宅で手を合わせたい」という伝言もあるという。
こうした中、神戸市東灘区に住み、1945年(昭和20)年3月の神戸大空襲で住まいを追われ、大阪市内に身を寄せていた男性(81)から寄せられた手記には、昨年(2021年)93歳で亡くなった伯父の証言を基に「終戦前日とは知らずに、電車で京橋駅に向かっていると、けたたましい空襲警報が鳴り響き、電車は急停車、扉が開くと、乗客はクモの子を散らすように逃げ出した。黒焦げになった無残な遺体を見て脚が震えた。今の日本の“平和と繁栄”は多くの犠牲者の上に成り立っている」と記されている。
慰霊祭世話人会(大阪市旭区)では「あと24時間で終戦を迎えたと思うと、本当に悔しいと皆が思うのが京橋駅空襲。太平洋戦争で亡くなった方々の命を無駄にしないためにも、残された私たちは平和を守る責務がある」としている。