三宮や旧居留地といった中心エリアにほど近く、都会にありながら芝生や木々に囲まれた「東遊園地」(神戸市中央区)。「神戸ルミナリエ」や「阪神淡路大震災1.17のつどい」といった、兵庫県民や神戸市民にとって大切なイベントがおこなわれたり憩いの場として親しまれたりしている場所ですが、なぜ“遊園地”なのか……不思議に思ったことはありませんか?
遊園地といえばメリーゴーランドやジェットコースターなどのアトラクションが並ぶ施設をイメージしますが、東遊園地は一見するとごく普通ののどかな「公園」です。
もしや、昔はその名の通り遊園地だったのか……? そんな疑問を、東遊園地を管理する神戸市建設局の公園部にぶつけてみました。
東遊園地の歴史を紐解いていくと、1866年、火災で打撃を受けた神奈川・横浜の外国人居留地の再建にあたって締結された「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」という条約が深く関係していることが判明しました。条約の中に「外国人と日本人が共有する遊園を設けること」という一文があって、これはつまり、日本に滞在する外国人が散歩やスポーツをできるよう公園の設置が求められたということだったのです。
そこで神戸(兵庫)開港に伴って生まれた神戸外国人居留地内に、1875年に作られたのがのちの東遊園地となる「外国人居留遊園」です。日本では初となる「西洋式運動公園」として知られ、開園当時は外国人専用だったとか。多くの外国人たちがそこで野球やサッカーを楽しみ、日本で西洋スポーツが広まるきっかけになったと伝えられています。
外国人たちの社交の場としても活躍した東遊園地は、その後「内外人民偕楽遊園」「内外人遊園地」などと名称が変化していきます。同時に、芝生やクリケット・フットボールなどのグラウンドが設置されるなど拡張を続けました。
1899年、条約は改正され全国の居留地が一斉に日本政府へ返還されました。それに伴い東遊園地も神戸市の管轄となり、名称も「加納町遊園地」に改められます。そして園の開設から55年がたった1922年、ついに現在の「東遊園地」に改称されたのです。ちなみに「東」というのは、旧居留地の東側に位置するという意味なのだそうです。