灘の酒蔵は、北から吹き抜ける「六甲颪(おろし)」という特有の気候を活用するために「重ね蔵」という形式を取ったり、蔵が冷えるのを防ぐために長い屋根で北風を逃がす「北流れの屋根」という建築様式が採り入れられたりした。しかし、こうした木造蔵の多くは阪神・淡路大震災で倒壊、あるいは老朽化による取り壊しとなった(北流れの屋根は現在、兵庫県姫路市広畑区の酒蔵で確認されている)。
■木造からレンガ、そして鉄筋コンクリートへ
そして、明治から昭和にかけては木造蔵からレンガ蔵へ変遷する。煉瓦は耐久性と耐火性に優れ、江戸時代以来の木造蔵を一部レンガ造りに、あるいは全面をレンガ造りにした蔵が登場する。
その後、ヨーロッパで生まれた鉄筋コンクリート技術が伝えられる。この技術が日本で最も早く取り入れられたのは1903(明治36)年、琵琶湖疎水運河の橋と伝わる。
酒造会社では、月桂冠(京都市伏見区)が1927(昭和2)年に国内初の2階建ての醸造蔵「昭和蔵」を建築、大手酒造会社を中心に鉄筋コンクリート造りの酒造建築が普及する。現在も近代化産業遺産として歴史を伝えている。
■酒蔵の変化が“四季醸造”を生んだ
太平洋戦争末期には、灘の酒蔵も空襲の被害を受け、多くの酒蔵が失われた。
戦後、従来と異なる象徴的な蔵として、白鶴(神戸市東灘区)が高層6階建ての「白鶴本店・弐号館」が登場する。さらに高度経済成長の波に乗り、清酒の需要の拡大に伴って昭和30年代には年間を通じて生産可能な“四季醸造蔵”が多く誕生していく。