19世紀後半にアメリカ南部の黒人労働者の間で生まれ、日本でも1930年代に爆発的なブームを巻き起こしたブルース。ところがその後、日本のブルースは本家アメリカとは違った形のガラパゴス化を遂げたようで……。今回は日本でのブルースの受容、発展の歴史についてシンガーソングライター・音楽評論家の中将タカノリと、シンガーソングライター・TikTokerの橋本菜津美が紹介します。
【中将タカノリ(以下「中将」)】 今回のテーマは日本のブルース。もともと、貧しい黒人労働者の音楽として生まれたブルースは、1920年代から世界的に流行し、日本でも数々の和製ブルースが作られるようになりました。
1935年にはヘレン雪子本田さんが、初めてタイトルに「ブルース」と付いた楽曲「スヰート・ホーム・ブルース」を発表。その後、淡谷のり子さんの「別れのブルース」(1937)などがヒットし、大衆にもブルースが知られるようになります。
【橋本菜津美(以下「橋本」)】 この時点で黒人のブルースとはかなり違っていますが、なんだかお酒が飲みたくなるような音楽ですね(笑)。
【中将】 独特のブルージーなムード感というのはあるけど、すでにガラパゴス化が始まってますね(笑)。「別れのブルース」の作曲を手がけた服部良一さんはもちろん、そもそものブルースが何たるかを理解していたんですが、それを日本で流行させるためにアレンジを加えたわけです。ブルース風の構成だけどブルースコードは使わず、当時の日本人の耳になじむよう工夫された痕跡がありますよね。
【橋本】 本格中華と王将の違いみたいなものを感じます!
【中将】 次に紹介するのは、戦後ほどなくして発表されたディック・ミネさんの「夜霧のブルース」(1947)です。