最盛期には1日100本! 空に浮かぶ広告『アドバルーン』の歴史 二・二六事件で使用された過去も | ラジトピ ラジオ関西トピックス

最盛期には1日100本! 空に浮かぶ広告『アドバルーン』の歴史 二・二六事件で使用された過去も

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「祝・オープン」「特売セール」などの文字が書かれたバルーンが気球にぶら下がる姿に、懐かしさを覚える人は多いのではないでしょうか。この風船は気球にぶら下げた垂れ幕を使った広告で、「アドバルーン」と呼ばれています。「アドバルーン」とは、「広告」を意味する「アドバタイズメント(advertisement)」と「気球」を意味する「バルーン(balloon)」をあわせた造語。昭和の時代にはデパートやスーパーなどの上空を彩っていました。

 アドバルーンの歴史や最盛期の様子について、現在もアドバルーンの制作を続ける中部アド株式会社で代表取締役を務める田中穣さんに話を聞きました。

昭和のアドバルーン

――アドバルーンはいつごろ登場した?

【田中さん】 日本では、大正初期には制作されていました。アメリカなど横書きが主流となる海外では、気球を2つ使って帯を持ち上げるタイプが多かったようです。一方、縦書き文化の日本では1つのバルーンにぶら下げるのが主流でした。

戦前から現在にわたって製造を続けている銀星アド社は、歴史の教科書にも出てくる「二・二六事件」(1936年)が起こった際にクーデターの解体を呼びかける「勅命下る 軍旗に手向かうな 戒厳司令部」というアドバルーンを掲揚(けいよう)したそう。アドバルーンはそれほど昔から使われていたのです。

「二・二六事件」で使われたアドバルーン(提供:銀星アド社)

――最盛期は?

【田中さん】 昭和30~50年代ごろが最盛期です。今でこそ郊外にも数多くの大型スーパーがありますが、最盛期初期は首都圏にしかデパートやスーパーがありませんでした。その後、昭和40年代前後に高度経済成長期を迎えたことで郊外や地方にも続々と大型店がオープン。これにより、アドバルーンの需要が拡大しました。

父の代では同じ現場での1日最多掲揚数100本を誇り、平成初期にも1日におよそ50本ものアドバルーンを掲げたといいます。

――どのような場所で揚げられていた?

【田中さん】 デパートや大型スーパー、個人商店、イベント会場など、さまざまな場所で利用してもらっていました。特にお中元やお歳暮のシーズンには、いろいろな場所でアドバルーンを見ることができました。

首都圏のデパートなどで掲げられることも多かったのですが、田舎でショッピングモールなどがオープンしたときには、敷地内だけでなく周囲の田んぼなどを借りてたくさんのアドバルーンを揚げていました。

ボーリング場に揚げられたアドバルーン
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