「国を信じていなければ、黒焦げになった遺体を運ぶことなんてできなかった。人から頼まれたわけではなく、自ら進んで。諸手を上げて“日本万歳”と言っていた私は、何ということをしていたのかと思う。“お国のため”、何を根拠にそんなことが言えたのか」。
国を批判することはできなかった。許されなかった、というよりは、少しでも国を諫(いさ)める言葉を発すれば憲兵が飛んでくる、恐ろしい時代だったと照屋さんは振り返る。「大本営発表の信憑性などなかったのだから」。メディアによるプロパガンダ(政治的扇動)の危険性が、否応なく日本人に降り掛かっていたのだと話す照屋さん。1945(昭和45)年8月15日のラジオから流れる玉音放送を聴き、“尋常じゃない”雰囲気、敗戦を察した。それと同時に、周りの大人たちが「日本が負けた?そんなことはない」「いや、日本は敗れたのだ」と言い争い、取っ組み合いの喧嘩を始めた時に、「ああ、国民はだまされていた。最後の1人まで戦うのだと、みんな誓っていたのに」と思い、涙したという。
「ウクライナとロシアの関係だけではない。台湾と中国の関係もしかり。根底に『人間同士』という感覚が欠落しているから、毎年この時期に(戦争で亡くなられた人に)手を合わせても、悲劇は繰り返される」。
敗戦から78年経ち、日本では戦争の生々しい体験談を聞いた子どもたちが“我が事”と思えない現実がある。戦争語り部としてあらゆる所で戦争の悲惨さを問いかけ続けた照屋さんは言う。「学童疎開、空襲警報、燈下管制、千人針……。小中学生の親御さん、祖父母の皆さんも太平洋戦争後に生まれ、これらが死語になりつつある。終戦から78年、致し方ないとは思うが、戦争を語り継ぐためには、避けて通れない言葉だから」。
アメリカ・スミソニアン航空宇宙博物館が、原爆投下後の広島、長崎の街の様子を映した写真わ新たに展示する計画が進んでいる。この企画案は1995年にも浮上したが、アメリカ世論からの反発にあい、中止となった。太平洋戦争終結から80年を迎える2025年、展示を刷新する一環とされる。照屋さんは「被爆した立場からの視点も必要だ。アメリカでは、原爆投下の被害状況を国内に向けることがタブーだったかも知れないが、そもそも、国どうしの優劣や勝ち負けはない。日本とアメリカ、お互いが事実を認め合わなければ」と話す。
照屋さんの妻・美江さんは87歳。大分県出身の美江さんにとって、忘れられない出来事がある。10歳の時、終戦直前の強い陽射しのもと、父が戦地へ向かうことになった。父は視力が弱かったことから、召集令状こそは届かなかったが、船員だったため、戦況悪化の中、急きょ戦地へ駆り出されることになった。故郷の蒲江(大分県佐伯市)の港から船に乗り込む直前に、母が「行かないで、戦地へ行けば死んでしまう」と父にしがみつき、船は父を乗せぬまま出航した。船はその後、鹿児島沖で爆撃に遭い、沈没したという。美江さんは、「命はお国のためじゃなく、私たちのためにある」と母は身をもって教えてくれたと振り返る。
照屋さんと美江さんは、戦後、2人の子どもと3人の孫に恵まれた。そして、いつもこの時期に「昭和も平成も遠くになりにけり。戦争を過去のものと思わず、日本が誤った方向に進まないよう見守らなければ。幼い子どもたちに平和な世の中を残していくために」と心に誓う。