日本が本格的に国家建設に取りかかった1300年前、奈良時代に整備された交通の要所「駅家(うまや)」を中心に、当時の交通の実態に迫る特別展「駅家発掘!―播磨から見えた古代日本の交通史―」が兵庫県立考古博物館(兵庫県加古郡播磨町)で開かれている。分かりやすい解説シリーズで好評の「リモート・ミュージアム・トーク」の今回は、同館学芸員の中川渉さんが担当。展示の見どころや歴史的背景などについて教えてもらった。
☆☆☆☆☆
兵庫県立考古博物館では現在、古代の交通制度をテーマにした展覧会を開催中です。飛鳥時代・奈良時代・平安時代にかけての出土品約320点を展示しています。会期は12月3日(日)までです。
「うまや」といっても馬小屋のことではありません。古代の日本では、奈良の都と全国の国府の間を、東海道や山陽道といった道でつないでいました。こうした道を通って、中央と地方の間を何日もかけて往き来する使者のために、馬の乗り継ぎ、食事・休憩、宿泊などといったサービスを提供するステーションが「駅家」です。サービスエリア兼ホテルといったところでしょうか。しかし実は、昔の駅家は一般人には使えないものでした。
古代の駅家を利用するにが「駅鈴(えきれい)」という身分証明が必要でした。役所で支給される、この銅製の鈴をガラガラ鳴らしながらやって来た公的な使者だけに、駅家の扉は開いたのです。駅家は交通・情報の核となる重要な役所だったのです。
その駅鈴の実物は、島根県隠岐の島の神社に2点だけ伝わっています。今回はその複製品をお借りして展示しています。
展示室では鬼瓦が皆さんをお出迎えします。これは駅家の建物の屋根を飾っていたもので、発掘調査で出土しました。いまでこそ瓦屋根はどこにでもありますが、当時は役所の重要な建物やお寺など限られたものにしか使われていません。ただし駅家の中でも、山陽道だけは別格で、海外からの使節に備えて、瓦葺きで朱塗りの柱・白壁造りの立派な建物を整えていたことが、調査の結果で裏付けられています。
駅家の遺跡の出土品の中には、「驛」と記された墨書土器があり、文字通り駅家であったことを示しています。
また山陽道の出発点である平城京と、終着点の大宰府からは、国の威光を示す大型の鬼瓦や、当時の物流が分かる木簡などが出土しています。それらの中から今展では、国宝・重要文化財21点を含む貴重な文化財を公開しています。なお、木簡の一部は展示替えがあり、国宝木簡の展示は11月1日まで、重要文化財木簡の展示は11月2日~17日の期間となります。
今回、備中国の小田駅家(おだのうまや)と目されている岡山県の矢掛町の毎戸(まいど)遺跡の出土品を展示していますが、同町には、江戸時代に出土し、地元の寺に伝わる重要文化財があります。
それは「下道國勝圀依母夫人(しもつみちのくにかつくによりははぶにん)骨蔵器」と呼ばれる青銅製の納骨器です。蓋の銘文に刻まれた「下道國勝」という人物は吉備真備の父親で、この青銅器は真備の祖母の遺骨を納めたものでした。遣唐使として中国に渡り、奈良の朝廷や大宰府で活躍した、歴史上とても有名な人物に関わる逸品です。ぜひご覧ください。