柳澤氏入城300年の奈良・大和郡山 シンボルの「金魚」と「城」、「桜」の歴史を11代当主に聞く | ラジトピ ラジオ関西トピックス

柳澤氏入城300年の奈良・大和郡山 シンボルの「金魚」と「城」、「桜」の歴史を11代当主に聞く

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 今年で市政70周年を迎えている奈良県の大和郡山市。シンボルの1つとなっている金魚を当地に伝えたとされるのが、徳川綱吉の大老格を勤めた柳澤吉保の嫡男・柳澤吉里です。その吉里が幕府に命じられて甲斐国甲府藩から郡山藩に移って享保9年(1724年)に郡山城へ入城し、この2024年で300年の節目の年になります。

 そこで、金魚の伝来や、柳澤家が6代にわたって居城としてきた郡山城、柳澤家ならびに郡山の歴史を知ることができる「柳沢文庫」、『日本のさくら名所100選』にも選ばれている郡山城跡の桜などについて、柳澤家11代当主の柳澤保徳さんに話を聞きました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

――大和郡山の金魚の歴史も柳澤吉里公から始まったのか? 

【柳澤保徳さん(以下、柳澤さん)】 真実はよくわからないというのが、本当のところかなと思います。元禄期やそれ以前から、金魚を自宅で飼うことは、そんなに珍しくなかったのかもしれません。江戸方面で金魚が広まり、柳澤がこちらに来るとともに、金魚の養殖がこちらで盛んになったのは、あり得る話。ただ、たとえば直接甲府からこちらに来るとき、金魚も一緒にやってきましたというのは、ストーリーとしてはちょっと無理があるようにも思います。

「武田二十四将図」柳澤吉里筆 中央上部に甲斐国の戦国大名武田信玄、その下に信玄の主要な家臣を配置した掛幅画。吉里は和歌の才に恵まれ、 絵画においても狩野派の清水洞郁に学び、 絵筆をとったことでも知られている。(所蔵:公益財団法人柳沢文庫)

――それでも、金魚がどんどん地元の庶民に広がっていった、そんな時代の始まりだったのか。

【柳澤さん】 もう1つは、大和の国が、雨があまり降らず、ため池が多かったのですが、そんなにきれいではない水が、金魚の生育には非常によかった、マッチングしたのも大きかったのだろうと思います。

――郡山城(史跡郡山城跡)の周りは入り組んだ、迷路のようになっている。吉里公が郡山に来られてから城下町がだんだんと整備されたのか。

【柳澤さん】 江戸時代中期ですから、すでに戦のためのお城というのは役割を一応終えていました。そうするとメンテナンスに徹するので、逆に言うと、当時のまま今に続いている、そういうことになりますね。

――市民の寄付で木造の橋が復元されていたが、ここを渡って天守閣跡に行くのは楽しいなと感じた。

【柳澤さん】 おそらく江戸時代を通じて、天守閣そのものはおそらく存在しなかった。天守台に登られたときに「遺構が発見された」と説明書きがあったと思いますが、発掘すると確かに天守閣があったのですが、江戸時代にはすでにそれはなかったので。そこで行政面でいろいろなことをやるという藩主の役割に徹していたと思います。

柳沢文庫の目の前に郡山城天守台に通じる極楽橋が架かる。(提供:柳沢文庫)

――柳澤家ゆかりの地方史誌専門図書館「柳沢文庫」の見どころは? また、史跡郡山城跡は桜がきれいなところでも知られるが。

【柳澤さん】 柳沢文庫は、戦後、昭和30年代にできた昔の建物をそのまま転用して、博物館とまではいかないが、様々な柳澤家に伝わる公的な資料の展示や、近代の資料も含めてあるかと思います。

江戸時代、桜は城内にはほとんどなかった可能性が高く、松が多かったんです。われわれより数世代上の人は、城跡に松というのが(お城の)風景。城跡に桜はいまや定番のようになっていますが、なぜ桜を植えたかというと、お城がなくなった後、どうやって多くの人に来てもらおうかというとき、桜の名所にしようというのが、明治の中頃のことで、当時の先達がいろいろやってきました。そのおかげで、最近では『日本のさくら名所100選』にも入るなど、桜が咲き誇るようになりました。

今では(郡山城に)天守台の展望施設もできましたし、この柳沢文庫で地元の歴史資料をちょっとのぞいてみようかとできるなど、そういう(歴史を知る)のにうってつけの施設になっていると思います。

柳澤氏に関する資料を多く伝える柳沢文庫。明治時代に建設された旧柳澤邸を施設としている。(提供:柳沢文庫)
柳沢文庫の展示室では年3回、展覧会が開かれる。(提供:柳沢文庫)
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