古来から兵庫県姫路の地の信仰を集めてきた「播磨国総社 射楯兵主神社(はりまのくにそうしゃ いたてひょうずじんじゃ)」。地域の人たちから「総社さん」の呼び名で長く親しまれ、初詣には例年約30万人が訪れるとのこと。今年もお参りした人が多いのではないでしょうか。
しかし、ご祭神や「総社」と称されるようになった経緯などは、地元の人でも意外と知らないかもしれません。そこで、射楯兵主神社祭務部の尾崎祐彦さん(※1)に詳しく聞きました。
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「『射楯兵主神社』は、神様のお名前をそのまま神社の名称としております」と尾崎さんは話します。尾崎さんによると、本殿の東西に二柱(ふたはしら=二つ)の神が祭られているそうです。東側に鎮座するのが「射楯大神」、西側が「兵主大神」です。
射楯大神は「日本の国中に木々を植えられた植樹の神様です。日本は国土の3分の2が森という国ですから、日本そのものを守ってくださっている神様であると言えます」と尾崎さん。一方、兵主大神は「出雲大社の神様と同じであり、縁結びの神様として知られています。また、あらゆる産業の開発に従事されたことから、『国造りの神様』また『医薬の開祖の神様』とも崇められています」と説明しました。
では、なぜ同神社が「総社」と呼ばれるようになったのでしょうか。その背景には、かつての役人に課せられた“巡拝任務”がありました。
尾崎さんは、「当社が射楯兵主神社と名付けられた平安時代。地方に派遣された国司(現在の県知事に相当する役職)には、国内の主な神社を巡拝して、国の平安と発展をお祈りするという大切な任務がありました。電車や車も無い時代ですから、(播磨国=現在の播磨地域の各社を巡るのは)とても大変であったものと察せられます」とした上、「そこで、国の役所近くの神社に国内の神様を合祀しました。巡拝任務をきちんと行い、国の人々の幸せを毎日願うことを目的として射楯兵主神社を総社としたのが始まりとされています」と、総社の成り立ちを説きました。
“播磨国総社”については「安徳天皇の養和元年(1181年)霜月(11月)15日、播磨国内の174座の神々を祭ったのが起源とされ、その174座の神々を郡別の16郡(古くは12郡)に分けて、本殿北側(本殿の後ろ)の総神殿にお祭りしています」と話しました。
そうして、同神社は射楯兵主神社となってから約600年後、播磨国にある全ての神社を束ねる総鎮守として、新たに「播磨国総社」とも呼ばれるようになったのだそうです。今となっては「総社さん」「総社のお宮さん」として愛される同神社。「射楯兵主神社という名前は、その読みにくさもあってかいつしか忘れ去られ、後からつけられた『総社』がメジャーになってしまったようです」と尾崎さんは分析します。