平田オリザさん(劇作家・演出家)のラジオ番組(ラジオ関西『平田オリザの舞台は但馬』)に、神戸を拠点に活動する脚本家・舞台演出家の菱田信也さんが出演。
阪神・淡路大震災やコロナ禍をはじめとした時代の転換期に作品を生み出してきた演劇人としての歩みをひも解きながら、神戸という地域性と演劇の関係、今後の展望について話を聞いた。
菱田さんは生粋の神戸っ子。姉が宝塚歌劇団の俳優ということもあり、舞台に対する憧れがあった。大学2年生のときに、「吉本興業新劇団オーディション」作家部門に合格。以降、放送作家見習いを経て、演出家・脚本家としての活動を開始した。
1994年には、地元神戸で劇団「NIWATORI」を立ち上げた。劇団名は、当時付き合いがあった桂文枝師匠が命名したという。
「(桂文枝師匠に)『藤山寛美さんからいただいていた名前をつけたらいい』と言われた。地元新聞やテレビの全国放送でもとりあげていただきました」(菱田さん)
じつは当時、番組アシスタントの田名部さんも同劇団のオーディションを受け、在籍していたという。
しかし、旗揚げ公演の2か月後に阪神・淡路大震災に見舞われ、40人近く在籍していた劇団員も3分の1に激減。当時について、このように振り返った。
「みんなの気持ちは、まだまだ芝居どころじゃなかった。予定していた劇場や稽古場も、避難所や遺体安置所になっている。7月に神戸文化ホールの中ホールでなんとか公演したのですが、お客様も20人くらい。でも、反応はとてもよかった。すると、公演終了後に職員の方が『使用料はいらない』とおっしゃってくださって。『神戸で旗揚げしてよかったな』と身に染みた瞬間でした」(菱田さん)
その後、劇団は解散。ちょうどそのころ、劇団のことをよく取り上げてくれた新聞記者から「震災離婚について取材している。菱田さんの劇団の俳優でイメージ写真を撮りたい」という依頼があった。
聞けば、震災をきっかけに離婚を決断する人が増えているという。戦後50年の節目でもあり、調べてみると終戦後の神戸でもさまざまな男女の問題が噴出していた。
「この神戸で時代に翻弄される男女を書いてみたい」との思いから一気に書き上げたのが、『いつも煙が目にしみる』だ。主演俳優が複数の役を演じる難易度の高さから、しばらく上演されることもなく塩漬けになっていたが、やがて、数奇な運命をたどることになる。