先日、吉永小百合さんが映画の役作りで80歳にしてピアスを開けたことが話題になりました。たしかに吉永さんの年代では清純派女優がピアスをするなんてあり得ないこと……では日本で一般にピアスが受け入れられるようになったのはいつのことなのでしょうか?

8月22日放送のラジオ関西『中将タカノリ・橋本菜津美の昭和卍パラダイス』では、そんなピアスの普及に着目。同番組パーソナリティーの中将タカノリ(シンガーソングライター・音楽評論家)が事前に調査した「ピアス」のワードを含む楽曲や各種データをもとに、橋本菜津美(シンガーソングライター・インフルエンサー)と語り合いました。
日本で初めてピアスを本格的に扱ったお店は、1946年に横浜にできた「スタージュエリー」だといいます。しかし購入するのは主に外国人で、日本人にそれが普及するには時間がかかったそう。1972年9月13日の朝日新聞では「耳に穴あけるなんて…イヤリング論争」という記事が掲載され、若い女性の間でピアスが静かなブームとなっていることを社会問題として報じています。
1977年、沢田研二さんのヒット曲『憎みきれないろくでなし』ではパンクファッションの影響を受けたカミソリ型ピアス(実際はイヤリング)が話題に。当時ピアスを付けているのはファッション業界や芸能界、水商売などに携わる一部の女性だけだったそうです。
そして中将は、今回調べた限り楽曲の歌詞に初めて「ピアス」という言葉が出てくるのは、1978年4月に、真木ひでとさんがシングル『悪夢の街』のB面として発表した『涙の輪舞』だと言います。「片方だけのピアスの意味がようやくわかった近頃なのよ」というこの意味深なフレーズは女流作詞家、山口洋子さんによるもの。
1978年は突然、歌謡曲で「ピアス」が取り上げられ始めた年だそうで、少し遅れて同年11月、杏里さんもアルバム『杏里 -apricot jam-』でピアスを取り上げた『キーワードを探せ』という曲を発表。また翌年9月、近田春夫さんもシングル『ああ、レディハリケーン』でピアスを取り上げています。
次に中将が紹介したのは、1982年6月に松任谷由実さんがアルバム『PEARL PIERCE』の収録曲として発表した『真珠のピアス』。「彼のベッドの下に片方捨てた Ah…真珠のピアス」という複雑な女心を歌ったフレーズですが、この曲に関して見逃せないのが、ファンレターに綴られた実体験をもとに作られたというエピソード。当時、ピアスを使ってそういう行為をする(おそらく)一般女性がいたということです。
ポーラ文化研究所が首都圏30キロ圏内でおこなったアンケート調査によると、女性のピアス着用率(過去10年)は1991年で17%、2000年でようやく33%。1980年代のデータはありませんでしたが、当時ピアスをする人が現代にくらべいかに少なかったかがわかります。ピアスをしているのはまだまだ一部のファッションに関心の強い人だけだったのでしょう。




