乗客106人が亡くなり、562人が重軽傷を負ったJR福知山線脱線事故は4月25日、発生から21年を迎えた。
当時大学生だった次女が事故車両の2両目で大けがをした、兵庫県川西市の三井ハルコさんがラジオ関西の取材に応じた。

昨年(2025年)12月、 事故車両を保存する施設が大阪府吹田市に完成した。施設は一般には非公開で、内部に入ることができるのは遺族や負傷者、また社員や運輸事業者の安全管理担当者らに限られている。
事故現場一帯に整備した追悼施設「祈りの杜」(兵庫県尼崎市)での車両保存を望む声もあったが、JR西日本は非公開とした理由を「非常にセンシティブで、興味本位で見られたくないから」としている。

三井さんがラジオ関西の取材や報道番組に出演し、思いを語るようになったのは事故から3年が経った2008年。遺族や負傷者が補償交渉や刑事・民事裁判など多くの課題と向き合っていた時期だ。これまでの取材に対し、事故車両についての発言を控えていた三井さんは重い口を開き、「非公開を続けることは避けてほしい。」と話した。
一方で三井さん自身は保存施設を訪れていない。その理由は、「時間がすべてを解決してくれるわけではない。事故によって一度壊れた心、傷んだ身体は、そう簡単に元に戻らない。むしろ目に見えぬ“しこり”、無言の“苦しみ”として、重くのしかかっているから」。JR西日本によると、今年3月末までに遺族の約4割、負傷者の約1割が訪れたにとどまる。

1985年に起きた日本航空ジャンボ機墜落事故をめぐっては、羽田空港にある日航の社員研修施設「安全啓発センター」で事故機体の一部や乗客の遺品が展示されており、一般の見学も可能となっている。それは事故から21年後のことだった。
JR福知山線脱線事故と同じく、人々の安全神話を根底から覆した大惨事だった。三井さんがかつて、羽田空港の日航安全啓発センターで見た事故機体は、あまりにもインパクトが大きかった。
「機体を見ることは、社会的な出来事として、安全への意識を喚起する“教科書”になり得るかも知れないが、その車両を目にすることによって、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ人もいる。拙速に進めるものではなく、これからも議論を尽くすことが重要だ」と話す。
ある負傷者は、「私たち負傷者の意見も聞き入れてくれていた」と一定の評価もあるという。
三井さんは、「遺品や車両についての議論がある程度活発になったのは、これまでJR西日本との衝突や話し合いがあったからではないか」とみている。


親元を離れている次女は、事故後しばらく、ラッシュアワーの電車に乗れない時期があった。今も一定区間をあえて乗らないようにしているという。 事故現場付近のことだ。 乗れないのではなく、「複雑な気持ちを抱え、意図的にその区間と自身との距離を置こうとしている」。ふだんは次女と事故の話をしないという三井さんだが、母親の目にはそう映るという。
そして、「会のメンバーの生きざまにも接していたから、我が娘に過度な干渉もなく、突き放すこともなくフラットな関係を持つことができた」と振り返る。
次女は独自のスタンスでレジリエンスを見出し、今を生きていくことに重きを置いている。





