《JR福知山線脱線事故21年》「レジリエンス(回復力)」とは?それぞれの人生で…三井ハルコさん

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 三井さんをはじめ、事故の負傷者と家族らの有志は、事故から約2か月経った2005年6月、それぞれの思いを話し、共有する「語りあい、分かちあいのつどい」をスタートさせた。
 そして事故の2年後、2007年7月から「補償交渉を考える勉強会」を開催。その後、補償(賠償)交渉などが個別では対処しきれなくなったため、2008年2月に「JR福知山線事故・負傷者と家族等の会」を設立した。今年(2026年)4月で「つどい」が246回を重ねた。8月で250回を迎える。

 こうした取り組みは、情報共有や補償交渉だけを目的にしていたのではない。

 負傷者の回復過程はつらい。身体の回復は果たせても、心の傷は継続することも多く、「レジリエンス(立ち直る回復力、再起力)の過程で、孤独にならなければ」との思いから生まれたものだ。

過去の「メモリアルウォーク」ルートを変えながらも続く 近隣に住む人、自治体の消防や危機管理監、JR西日本の現役の運転士やOBなど参加者も幅広い ※画像は過去(2023年)のようす

 事故から10年間は、考え方の相違や会の進め方、あり方で対立や反発もあった。毎年同じ行事を繰り返すが、1年として同じことはなかった。
 国土交通省・被害者支援室との意見交換、事故の記憶を紡ぐ「空色の栞」の作成・配布、事故現場近辺を歩くメモリアルウォーク…そうした「場」の重要性を理解し、常にケアし続ける手間と時間が必要だ。
 三井さんは運営面で心が折れそうになったこともあった。しかし、いつしか“荷下ろし”をしてくれたメンバーがいたことで、心が通じ合った。

事故から1年、大規模なメモリアル行事を企画 しかしその後、それぞれが持ち味を出して活動しながら思いをつなぐようになった

 負傷者の家族は事故の「当事者」と言えるのか、悩むこともある。三井さんの場合、次女は命を取り留め、いつでも会える状態だから、何とか乗り越えてきた。一方で、手術を繰り返す人、後遺症に苦しむ人もあり、またその家族も精神的・肉体的に壮絶な人生を歩んでいる。「家族や知人を失った方々の気持ちなどを思うと、自分は“当事者といえるのか?”という後ろめたさや負い目があったのも事実」と話す。

 親元を離れている次女は、事故後しばらく、ラッシュアワーの電車に乗れない時期があった。今も一定区間をあえて乗らないようにしているという。 事故現場付近のことだ。 乗れないのではなく、「複雑な気持ちを抱え、意図的にその区間と自身との距離を置こうとしている」。ふだんは次女と事故の話をしないという三井さんだが、母親の目にはそう映るという。

 そして、「会のメンバーの生きざまにも接していたから、我が娘に過度な干渉もなく、突き放すこともなくフラットな関係を持つことができた」と振り返る。

 次女は独自のスタンスでレジリエンスを見出し、今を生きていくことに重きを置いている。

三井ハルコさん(手前)と次女(奥)メモリアルウォークの途中、「祈りの杜」を訪れ献花

 21年経った今も、どんどん発信し、広く伝え続けたい。JR西日本の社員の7割近くが事故後に入社している。今でも大小問わず事故は起きている。手放しで「安全になった」とは言えない状況だ。
 「安心・安全な社会、再発防止...共通の目的がある。私たちが取り組むこと、加害企業であるJR西日本が取り組むべきこと、メディアが伝えること、行政ができること、専門家や学究者による検証・分析といったことが、バラバラではなくリンクすれば。 それもレジリエンスのあり方かも知れない」との考えは変わらない。

 鉄道は性別、年代、さまざまな属性の人が利用し、それぞれの人生を乗せている。「鉄道の車内は社会の縮図かも知れない」と話す三井さん。だからこそ、「事故の負傷者、その人にしかわからない、その人にしか語れない生きざまがある」と訴え続ける。そして今年も「祈りの杜」で、静かに手を合わせる。

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