芸者が人気歌手に?総理大臣の愛人にも?戦前・戦後の音楽シーンを席巻した“うぐいす芸者”ブームとは

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 昭和歌謡、昭和ポップスにスポットライトを当てたラジオ番組『中将タカノリ・橋本菜津美の昭和卍パラダイス』(ラジオ関西)の3月27日放送回では、昭和初期から戦後にかけて活躍した“うぐいす芸者”を特集。なぜ芸者から数々の人気歌手が生まれたのか、彼女たちがどのようにスターの地位を築いたのかについて、当時のヒット曲を交えながら、番組パーソナリティーの中将タカノリさん(シンガーソングライター、音楽評論家)と橋本菜津美さん(シンガーソングライター、インフルエンサー)が語り合った。

戦前・戦後にムーブメントを巻き起こした"うぐいす芸者"とは?(画像はイメージです)

 日本を代表する文化として知られる芸者。その位置づけは非常に幅広く、伝統芸能の担い手である一方、接客業的な側面もあった。当時は「芸者ふぜい」と見下されることもあった一方で、芸能界でスターになったり、政財界の有力者と結びついたりする例もあったという。

 中将さんによると、昭和初期から戦後にかけて“うぐいす芸者”と呼ばれる芸者歌手が多数登場。民謡、端唄、小唄などの伝統音楽からポップス調のものまで、数々のヒット曲を生み出したと解説する。

 番組で最初に紹介されたのは、“うぐいす芸者歌手第一号”として知られる藤本二三吉さんの『祇園小唄』(1930年)。「祇園恋しや だらりの帯よ」のフレーズで知られるこの曲は、現在も京都で親しまれており、ゆかりの地・円山公園には歌碑が設けられ、祇園小唄祭では毎年舞妓が舞を奉納している。

 大正から昭和へ移り変わる1920年代は、日本のレコード産業の勃興期だった。日本橋葭町の芸者だった二三吉さんは、その歌声をレコード会社に見込まれ、1924年に「米水戸家二三吉」名義で歌手デビュー。『祇園小唄』の大ヒットでスターダムへ駆け上がり、“うぐいす芸者ブーム”を巻き起こしたという。

 2曲目に紹介されたのは、小唄勝太郎・三島一声による『東京音頭』(1933年)。現在では盆踊りの定番曲として知られるが、もともとは前出の藤本二三吉さんが1932年に歌った『丸の内音頭』が原曲。早い段階でヒットの兆しが見えたことから、全国的なヒットを目指して『東京音頭』として改作され、最終的には120万枚を売り上げる社会現象級のヒットとなった。

 橋本さんは、子どもの頃から地元・兵庫県川西市の祭りで『川西音頭』を耳にしていたといい、『東京音頭』とのメロディーの共通点に驚いていた。

 勝太郎さんは新潟県出身。6歳で母を亡くし、料亭を営む親戚の養女となった。芸妓として働き始めると人気を集め、25歳で年季明けを迎えた後は、清元(きよもと=三味線浄瑠璃の流派)の師匠を目指して上京。葭町で再び芸者として活動する中、二三吉さんに続く“うぐいす芸者”としてレコード会社にスカウトされた。1932年の『島の娘』で注目を集め、翌年の『東京音頭』の大ヒットで人気歌手としての地位を確立した。

 3曲目に紹介されたのは、美ち奴さんの『あゝそれなのに』(1937年)。日活映画『うちの女房にゃ髭がある』(1936年)の主題歌として制作されたこの曲は、当時としてはモダンなリズムと、「ねぇ」というセクシーな嬌声で話題となり、40万枚を売り上げるヒットを記録した。

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