光秀の丹波攻めで一時焼失 丹波・黒井の春日神社 丹波市で歴史を訪ねる(3) | ラジトピ ラジオ関西トピックス

光秀の丹波攻めで一時焼失 丹波・黒井の春日神社 丹波市で歴史を訪ねる(3)

LINEで送る

この記事の写真を見る(3枚)

 明智光秀ゆかりの地として注目される兵庫・丹波について、歴史をはじめ多面的に取り上げる『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』(ラジオ関西)。4回にわたる丹波市内の歴史を訪ねるシリーズ、3回目の7月16日放送回では、春日局(お福)ゆかりの場所である興禅寺を出て、黒井の町がよく見えるところにフォーカス。番組パーソナリティーである「兵庫・神戸のヒストリアン」として活躍する田辺眞人・園田学園女子大学名誉教授と、久保直子さんとともに、訪ね歩きます。

 興禅寺の山門から、黒井の町の方を見てみると、正面に山があり、後ろにも山。黒井が盆地だということがよくわかります。黒井城から見て正面の山は、向山。そこから東に山並みが連なり、丹波の名峰・三尾山を通り、さらに東へ行くと旧多紀郡の北側には多紀連峰があります。

 弥生時代には、黒井の盆地辺りに農業が根を下ろします。農村地帯が地域の有力者によって支配され、豪族たちが権力の象徴として古墳を作ります。古墳時代というのは全国各地の有力な一族が全国の土地を勝手に仕切っている状態でした。

 そのなかで、中国では西暦600年前後に法律によって国の中心政府が国中を支配するという新しい政治モデルができます。500年代の終わりの隋がそれを実現しますが、急速な政治改革であったため短命で滅びます。618年に唐の国ができると、この制度をゆっくりと定着させていきました。

 日本で、全国を同じ法律で書かれたルールで仕切る形へ政治を移行させようとした代表的な人物が聖徳太子です。聖徳太子は憲法十七条や冠位十二階等のモデルを学ばせるために遣隋使を送ります。結局は実力で仕切っていたような豪族のチャンピオン・蘇我氏には勝てず、晩年は政治から離れ、仏教に入り込んでしまいます。

 この聖徳太子の次の世代に中大兄皇子や中臣鎌足がいました。聖徳太子が送った遣隋使とともに中国に渡っていた若手の人たち、高向玄理(たかむこのくろまろ)・南渕請安(みなぶちのしょうあん)・旻(ミン)というお坊さんらが数十年経った630年代くらいに帰ってくると、蘇我氏の政治に満足しなかった中大兄皇子たちと結びつき、646年に政治クーデターを起こしました(乙巳の変)。

 その結果、政権を握った中大兄皇子や中臣鎌足たちが中国の制度に倣ったような国を作っていきます。この政治改革が「大化の改新」です。その結果、中央政府が国々全部を仕切るようになります。そして土地も人も中央政府が直接コントロールする「公地公民の制度」や、公の民に均等な土地を生活基盤として授け、国から与えられた土地は死んだら国に返す「班田収授」が実行されていくようになります。

 この辺りも丹波国の氷上郡として中央政府の政治の支配を受けることになるわけですが、やがて800年代平安遷都のあとの頃になり、律令体制が動揺していくと、中央でも地方でも有力者たちの一族が土地の私有化をはかります。こういった私有の農場が「荘園」です。公地公民の時代にこの黒井のあたりも開墾され、やがて荘園の発達に伴って春日部荘ができあがっていきました。

春日神社
春日神社

■春日神社


『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年7⽉16⽇放送回音声

LINEで送る

ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波 | ラジオ関西 | 2020/07/16/木 17:35-17:50

放送後1週間聴取可能、エリア内無料 radikoプレミアム会員はエリア外聴取可

関連記事