日本を代表するGKとして君臨、G大阪の絶対的守護神・東口順昭が歩んだ波乱万丈の道のりとは | ラジトピ ラジオ関西トピックス

日本を代表するGKとして君臨、G大阪の絶対的守護神・東口順昭が歩んだ波乱万丈の道のりとは

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 今シーズンのサッカー・Jリーグが、2月18日からいよいよ開幕。W杯イヤーということもあり、大きな注目が集まるなか、今年も日本を代表するGKの1人として活躍が期待されるのが、ガンバ大阪の東口順昭選手(35)だ。青黒の絶対的な守護神としてガンバに不可欠な背番号1だが、これまでの道のりは波乱万丈といえるもの。1月に放送されたラジオ番組で、プロサッカー選手、ガンバのトップチーム、そして日本代表に至るまでの道のりや、当時の思いを語っている。

ガンバ大阪の東口順昭選手 ※収録は2021年12月、撮影時にマスクを外して対応(写真:ラジオ関西)

 ラジオ関西『としちゃん・大貴のええやんカー!やってみよう!!』1月17日放送回にゲスト出演した、東口選手。J1リーグ戦で354試合出場、日本代表でも2018年のW杯ロシア大会メンバー入りするなど、豊富な実績を残しているが、「よくここまで上り詰めたな、と周りにも言われる」と東口選手もいうように、決して順風満帆なサッカー人生を過ごしてきたわけではなかった。

 中学時代はガンバのジュニアユースに所属するも、ユースへの昇格が叶わず、京都の洛南高校に進学。全国高校サッカー選手権の府大会決勝戦まで進むも、PKで惜しくも敗戦し、全国の舞台には進めず、悔しい思いを味わう。高校卒業後は、福井工業大学へ進学しサッカー部に所属していたが、その途中で監督が辞任するという事態に。指導者不在のまま「選手で練習メニューを組んだりしていた」。

 そんななかでも、全日本大学選抜に選ばれた東口選手は、そこで他大学のサッカー部コーチと出会い、指導者のいる環境でサッカーをするため、新潟経営大学へ編入する。この転機を経て、東口選手は2008年に特別指定選手となったアルビレックス新潟で、翌年にプロ入り。ルーキーイヤーこそカップ戦の1試合出場にとどまったが、2010年のJ1デビュー後は、途中で負傷による長期離脱も経験しながら、その恵まれた体躯をいかした的確なセービング技術をいかんなく発揮し、確固たる地位を築いていく。

 そして2014年には、サッカーの原点となったガンバに完全移籍。満を持して青黒のトップチームの一員となった。同年のシーズンでガンバの国内3冠獲得を支えたのをはじめ、チームの最後のとりでとして、幾度もピンチを救ってきた。最近3シーズンもJ1では全試合フル出場を継続中だ。

 そういった経歴を持つ東口選手だが、実は子どものとき、「GKは、あんまりやりたくなかった」と、当時の思いを明かす。

「得点を取るのが好きで、動き回りたかったんですけど……小学生のとき、じゃんけんで負けてGKをすることになったんです。そしたら評価されて、大事な試合ではGKとして出場していました」(東口選手)

 ガンバのジュニアユースでもGKでセレクションに合格していたが、「まだFWをしたいと、自分のなかでは思っていた」。しかし、チームに入ると、当時のジュニアユースは、家長昭博選手(現、川崎フロンターレ)、本田圭佑選手らをはじめタレントぞろいで、「むちゃくちゃ上手い選手ばかりだった。フィールド(プレーヤー)は無理だなと思い、そこであきらめがつきました」。

 そこからGKでの経験を積み重ね、プロに、そして、ガンバの守護神に君臨するまでに至った、東口選手。自身のこれまでの歩みについて「これしか僕がプロになれる道はなかったんだと思う」と語るが、ストイック、かつ、真摯な姿勢が、今のポジションを築いているといえよう。また、プロ入り後、2度の大ケガも経験するなど、幾多の苦難も味わってきたが、その逆境も乗り越えてきた。番組のなかでは、プロサッカー選手への道をサポートした親への感謝の思いも述べていた。

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