精錬鍛冶の最新技術を持った集落が西宮に 兵庫県立考古博「新発見!ひょうご発掘調査速報2023」 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

精錬鍛冶の最新技術を持った集落が西宮に 兵庫県立考古博「新発見!ひょうご発掘調査速報2023」

LINEで送る

この記事の写真を見る(6枚)

 兵庫県立考古博物館(兵庫県加古郡播磨町)では8月27日(日)まで、夏季企画展「新発見!ひょうご発掘調査速報2023」が開かれている。分かりやすい解説で好評のシリーズ「リモート・ミュージアム・トーク」の今回は、同館の渡瀬健太学芸員が担当。同展の内容についてひも解いてもらう。題して「最新の出土遺物と県指定文化財、合計429点を一挙公開」。

兵庫県立考古博物館
兵庫県立考古博物館

☆☆☆☆☆

 兵庫県立考古博物館では、8月27日(日)まで、夏季企画展「新発見!ひょうご発掘調査速報2023」を開催しています。

 当企画展は、令和4年度に整理作業が終了し、調査報告書を刊行した6遺跡から出土した245点の遺物、同年度に発掘調査を行った8遺跡から出土した184点の遺物を展示しています。また、これらに加えて、「五国の逸品」と題して、現在の兵庫県を構成する旧五国(摂津、播磨、但馬、丹波、淡路)から、それぞれ1遺跡ずつ選りすぐりの県指定文化財27点を展示しています。

展示の様子
展示の様子

 令和4年度に調査報告書を刊行した遺跡の中で特に注目していただきたいのは、豊岡市日高町に所在する南構(みなみがまえ)古墳群です。高速道路の建設に伴って行われた発掘調査により、田畑の下からそれまで知られていなかった11基もの古墳が発見され、石室からは須恵器(すえき)と呼ばれる土器や鉄製の武器・工具、装身具として用いられた耳環(じかん)や玉類など、多くの副葬品が出土しました。副葬品の種類や形から、いずれの古墳も古墳時代後期から終末期(6世紀~7世紀ごろ)にかけて築かれたものであることが分かります。

 出土した玉類は、瑪瑙(めのう)や碧玉(へきぎょく)、水晶(すいしょう)、蛇紋岩(じゃもんがん)、滑石(かっせき)、ガラス、粘土といった素材で作られており、多様な色彩、質感を持ちます。当時はこれらをつなぎ合わせて首飾りとしていました。報告書の作成にあたり、これらの玉類の詳細な観察・分析を行った結果、瑪瑙や碧玉、水晶製のものは当時玉造りの中心地であった出雲地域(現在の島根県東部)で産出する素材を用い、同地の製作技法で作られたものであることが分かりました。一方、蛇紋岩や滑石製の玉は遺跡の近隣で採取できる素材を用いて作られていました。南構古墳群の調査成果からは、古墳時代の玉類の生産と流通の一端をうかがい知ることができます。

南構古墳群出土玉類(兵庫県立考古博物館蔵
南構古墳群出土玉類(兵庫県立考古博物館蔵)

 令和4年度に発掘調査を実施した遺跡のうち、特に重要な成果が得られたものは、西宮市南部に所在する津門大塚町(つとおおつかちょう)遺跡です。病院の建設に先駆けて実施された発掘調査により、古墳時代中期から後期(5世紀~6世紀ごろ)にかけての集落とその北側に築かれた12基にもおよぶ古墳群の存在が明らかとなりました。

 古墳の周囲に掘られた濠からは、多くの埴輪・須恵器・土師器(はじき)の他、朝鮮半島からもたらされた陶質(とうしつ)土器や、牛馬の歯・骨なども出土しています。また、竪穴建物跡からは、炉に空気を送る鞴(ふいご)の羽口(はぐち)や鍛冶の際に生じる不純物である鉄滓(てっさい)、鉄塊、金床石などが出土し、津門大塚町遺跡に暮らした集団が当時最新の技術であった精錬鍛冶や鉄器製作を行っていたことが分かりました。

 今回の調査成果からは、古墳時代中期から後期にかけて、西宮市沿岸部に朝鮮半島と深い関係を持つ集団が居住し、鉄器の製作や牛馬の飼育に従事していたこと、また集落を見守るように近接して築かれた古墳に、彼らを率いた有力者が葬られたことが想定できます。今後は報告書刊行に向け、数年間をかけて調査成果の整理作業を実施していくことになります。古墳時代の地域社会を考えるうえで重要な事実が次々と明らかになっていくことでしょう。

津門大塚町遺跡の全景
津門大塚町遺跡の全景
津門大塚町遺跡出土の陶質土器(左:甕[かめ] 右:把手付鉢[とってつきはち])兵庫県立考古博物館蔵
津門大塚町遺跡出土の陶質土器(左:甕[かめ] 右:把手付鉢[とってつきはち])兵庫県立考古博物館蔵

「五国の逸品」では、当館が所蔵する県指定文化財の中から、兵庫五国にまつわる資料を厳選して展示していますが、中でも注目いただきたい資料は、宝塚市に所在する安倉高塚(あくらたかつか)古墳の出土品です。

 安倉高塚古墳は、古墳時代前期(4世紀ごろ)に築かれた直径10メートル前後の小規模な円墳です。昭和12年に行われた道路工事により半壊してしまいましたが、竪穴式石槨の中から、二面の銅鏡や玉類、鉄器の破片などが出土しました。銅鏡のうち一面は対置式神獣鏡(たいちしきしんじゅうきょう)と呼ばれるもので、縁辺部に鋳出された銘文には、『三国志』で有名な呉で用いられた年号「赤烏(せきう)七年」(西暦244年:呉の皇帝孫権の治世にあたる)と記されており、製作地や作られた年代が分かる数少ない鏡の一つです。呉で作られたことが判明している鏡は、日本では他に1例(山梨県・鳥居原狐塚[とりいばらきつねづか]古墳出土)のみであり、当時の国際情勢を考えるうえでも、非常に興味深い資料と言えます。

LINEで送る

関連記事