太平洋戦争末期に8000人以上が犠牲となった神戸空襲。
アメリカ軍のB29爆撃機が神戸上空に襲来、街を襲ったのは1945(昭和20)年2月~8月に少なくとも5回、特に3月と6月の爆撃による被害は甚大だった。その犠牲者の約7割の名前は判明していない。
こうした中、市民団体「神戸空襲を記録する会」が6月2日、大倉山公園(神戸市中央区)の「いのちと平和の碑」で刻銘追加式を開いた。新たに判明した犠牲者の名前は36人。
2013(平成25)年に除幕式を行い、翌2014年から2年ごとに犠牲者の氏名が刻まれ、今回で計2267人となった。
この日、神戸市須磨区で当時4歳で亡くなった堺井昭光(さかい・あきみつ)さんの名も新たに加わった。6月の空襲で、母親に手を引かれて自宅から逃げる際に、焼夷弾に含まれていた油脂を浴びて全身に大やけどを負った。「のどが熱い、水が欲しい、水、水…」と苦しみながら亡くなったという。この情報を会に寄せたのは、昭光さんの兄・昭武(てるたけ)さん(88・兵庫県尼崎市)。
神戸市立若宮国民学校3年だった昭武さんは当時、兵庫県たつの市に集団疎開していた。8月の終戦後、疎開を終えて帰神、神戸駅に迎えに来た父親から、「この空襲で弟(昭光さん)が亡くなった」と聞いた。「その場(空襲)にいなかったので、実感がわかなかった。しかし、この歳になって、なぜ弟は亡くなったんだろう、さぞかし、母はいたたまれない気持ちだったろうと思うようになった」と打ち明けた。
そして、ようやくその名を刻むことができた弟・昭光さんに「長い間、ごめんな」と語りかけた。今、ウクライナやイスラエルなどで緊迫した情勢を見るにつけ、昭武さんは心を痛める。「それにもかかわらず、日本では、太平洋戦争のことが忘れ去られようとしている」。戦争の記憶の風化を恐れている昭武さん。「もっと語り継がなければ」と話した。
記録する会の小城智子・事務局長は「今世界で起きている戦争について、もっと目を向けなければならない。神戸空襲のうち、6月5日の爆撃は、野坂昭如さんの『火垂るの墓』の1シーンにもなっているほど大きな被害を受けた。79年経ち、本当に平和な世の中にしていかねばならないし、お互いを尊重する社会を作っていかなければと思う。平和を作っていくという意識を忘れてはいけない。8000人を超える犠牲者のうち、まだ判明していない方、一人ひとりに人生があった。どんな情報でもいいので寄せてほしい」と呼び掛けた。
【情報提供】神戸空襲を記録する会 電話078ー891ー3018