子どもから大人まで、幅広い年代から愛される家庭の定番料理「カレー」。神戸には、“名店”と呼ばれるカレーショップがたくさんありますが、その一方で新店の参入も増えています。「神戸深江カレー」(神戸市東灘区)もその一つ。ガス工事の現場監督を30年間務めたのち、カレー店のマスターへと転身した佐々木拓也さんに話を聞きました。
☆☆☆☆
先日、大正筋商店街(神戸市・長田区)で行われた神戸震災復興ライブ「ONEHEART」では炊き出しに参加した同店。参加したきっかけについて佐々木さんは、「阪神・淡路大震災で被災した時、他府県の方の炊き出しによって1日も飢えることなく生活することが出来ました。30年たった今、震災を知らない子供たちにも温かい炊き出しを食べてもらうことで、気持ちも命も助けてもらえた思いを知るきっかけになればと思い、参加させて頂きました」と話します。
震災発生当時、佐々木さんは両親と3人で2階建ての木造アパートの1階に住んでいました。
「1/16(震災発生前日)はスノーボードへ行っており、1/17(震災発生日)の午前3時に帰宅。ようやく寝付いた頃に、床から『ドーン!』と突き上げるほどの衝撃があり、私たちが住んでいた1階が崩れ生き埋めになりました。発生直後、父と母の声は確認できたのですが、まだ揺れている状態が続いていました。暗闇の中、外からの風がかすかに頬に当たるのを感じ、その方向に腕を伸ばし手探りで少しずつ物をのけながら進むうちに、なんとか私は外に出ることができました」(佐々木さん)
佐々木さんが住んでいたアパートは大通り沿いの住宅や建物がひしめき合う場所でした。周りの家は殆ど崩壊し、普通なら見えることのない離れた国道まで目視できるほどの“野っ原状態”だったそう。「間もなく父が自力で外に出てきました。私は母の声を頼りに再びアパートへ入りこみ、無我夢中で、畳をめくり拳で板を割りました。母のいる場所を特定して、人が出られるくらいの穴を作って助け出そうとしましたが、母の足は家具の下敷きになって抜けません。すぐさま車のトランクにあるタイヤの交換用のジャッキを取りに行き、家具にかませて母を救出することができました」と、佐々木さんは非常に緊迫した状況であったことを語ります。
「幸い父も母も私もケガはなく無事でした。そのまま父と母は近くの小学校に避難。私はガス工事の監督だったので会社からの要請ですぐに出勤し、ガス管の復旧作業をしながら会社の横に車を止めて3か月ほど車中泊しました」と当時を振り返りました。
大きな震災を経て、カレー店を営むこととなる佐々木さん。開店のきっかけを話しました。
「妻の香津美と私は、休日になると大阪のとあるカレー店へ足しげく通っていました。ある日のこと、好きが高じた妻が『何とか家であの店の味が再現できないか』と試作を始めたのです。当たり前ですが、なかなか同じ味にはなりませんでした。しかし『これはこれでおいしい!』と感じたため、神戸市灘区の水道筋で喫茶店をしていた母に間借りできる場所を見つけてもらい、2023年1月からの3か月間、夫妻の休みの日に営業してみることにしました」(佐々木さん)
現場監督の時は顧客から直接礼を言われることが無かった.....と話す佐々木さん。カレー店では“真逆の現象”を目の当たりにします。
「お客様から『おいしかったよ!』『また来ます!』と声をかけてもらい、凄く嬉しかったですね。当時、私は52歳でしたが『人生一度きりだしやってみよう!』と(決意するには十分の出来事でした)」。佐々木さんは、4月いっぱいで前の会社を退職。その年の6月8日に東灘区で本格的に店舗をオープンしたのです。
阪神深江駅の近くに構えた店では欧風カレーを提供。“トロトロ”と“サラサラ”の間くらいのルゥで「最初のひと口は甘いが、後から辛くなる」のが特徴なのだそうですよ。
☆☆☆☆
「神戸の深江の地で死ぬまで家族でカレー屋が出来たらいいなぁと思います」と、佐々木さん。大震災を経験したからこそ言える“今後の目標”を述べ、番組をしめくくりました。
(取材・文=迫田ヒロミ)
※ラジオ関西『Clip』2025年1月29日放送回より