ウイスキーの広告や富士山の絵 画家であり広告制作者・山崎隆夫の足跡を辿る 芦屋市立美術博物館 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

ウイスキーの広告や富士山の絵 画家であり広告制作者・山崎隆夫の足跡を辿る 芦屋市立美術博物館

LINEで送る

この記事の写真を見る(12枚)

 洋画家であり、トリスウイスキーなど広告の仕事でも手腕を発揮した山崎隆夫。彼の仕事の全貌を紹介する特別展「山崎隆夫 その行路-ある画家 / 広告制作者の独白」が、芦屋市立美術博物館で開催されている。2025年11月16日(日)まで。

山崎隆夫「花と影の静物」1938年 油彩、カンヴァス 芦屋市立美術博物館蔵
山崎隆夫「花と影の静物」1938年 油彩、カンヴァス 芦屋市立美術博物館蔵

 山崎隆夫(1905~1991)は、大阪に生まれ、神戸で暮らした。画家を目指しつつも、美術系の学校ではなく神戸高等商業学校(現・神戸大学)に入学。在学中に芦屋在住の洋画家・小出楢重に師事した。小出楢重のアトリエは現在、同館の敷地内に復元されているが、小出が亡くなった後、山崎が受け継いだ。画家としての顔を持つ一方で山崎は、広告制作者として数々の名作を世に出した。今展は同館にもゆかりのある山崎の生誕120年を記念した、絵画と広告双方に焦点を当てる初めての展覧会になる。小出に師事した頃から、晩年まで、時代を追いながら、また今展のタイトルに「ある画家/広告制作者の独白」とあるように、折に触れて山崎が残した言葉も併せて紹介する。

小出楢重「仏蘭西人形」1923年 油彩、カンヴァス、芦屋市立美術博物館蔵
小出楢重「仏蘭西人形」1923年 油彩、カンヴァス、芦屋市立美術博物館蔵
山崎隆夫「人形」 1929年頃 油彩、カンヴァス、芦屋市立美術博物館蔵 人形の鼻筋の白い筆は小出の筆とされる。
山崎隆夫「人形」 1929年頃 油彩、カンヴァス、芦屋市立美術博物館蔵 人形の鼻筋の白い筆は小出の筆とされる。

 山崎は小出楢重との師弟関係を出発点に、具象から抽象とその間を行き来しながら独自の絵画世界を創り上げていった。神戸高等商業学校在学中に小出楢重に師事し、小出が1931年に亡くなった後は、画家・林重義のもとで、絵の具の知識やフォービズムなどを学んだ。卒業後は三和銀行に勤め、仕事が終わった後、夜に筆を握ったという。室内の照明だけで描いた静物画は影のコントラストがよく出ており、影自体も絵の主題のように見える。「当時は戦争の影響もあり、1938年には灯火管制も出されたことも関係している。絵の具の入手も難しくなる時期でも、様々な拘束を逆手にとり、その時にしか描けないものを描こうとしていたのではないか」と、同館の川原百合恵学芸員は分析する。「『卓上の電話』はそのバランスが絶妙。黒い電話に白いコード。コードを境目に床の描写が変わる。見たままではなく、そこに遊心や実験的な要素を入れている。絵画でしかできない造形を楽しんでいる」と話す。

山崎隆夫「卓上の電話」1937年 油彩、カンヴァス、芦屋市立美術博物館蔵
山崎隆夫「卓上の電話」1937年 油彩、カンヴァス、芦屋市立美術博物館蔵

 制作活動と並行して、戦後は広告の仕事にも従事し、三和銀行や寿屋(現・サントリーホールディングス株式会社)で手腕を発揮した。部長を務めた寿屋宣伝部で生まれたのが「アンクルトリス」。今も広く愛されているキャラクターだ。当時宣伝部には、イラストレーターでアンクルトリスの生みの親・柳原良平、コピーライターの開高健、山口瞳、アートディレクターの坂根進、カメラマンの杉木直也など、後に各界で活躍することになる多彩なメンバーが揃っていた。山崎は、彼らに「ほん機嫌よう遊びなはれ」と声をかけ、自由な雰囲気の中で仕事をしてもらい、それをまとめる、いわばアートディレクターだった。会場には、彼らが手掛けた広告や販売促進のための資料などが並ぶ。洋酒を楽しんでもらうために様々な試み、工夫が行われていたことがわかる。

展示風景
展示風景
トリスウイスキー広告「人間らしくやりたいナ」1961年 株式会社寿屋(絵:柳原良平、コピー:開高健)
トリスウイスキー広告「人間らしくやりたいナ」1961年 株式会社寿屋(絵:柳原良平、コピー:開高健)
トリスウイスキーのマスコット アンクルトリス(絵:柳原良平)
トリスウイスキーのマスコット アンクルトリス(絵:柳原良平)

 1974年、山崎は69歳の時に、広告の仕事の第一線から退き、画家の活動に専念する。この頃は神奈川県茅ケ崎市に居を構えており、静物や風景画を描いた。中でも富士山を題材にしたものが多く、「富士の画家」と呼ばれることもあった。「山崎の絵画は画業を通じて具象と抽象の間を行ったり来たりしながら、独自のスタイルを確立していった」と川原学芸員は解説する。

LINEで送る

関連記事