明智光秀ゆかりの地として注目される兵庫丹波の歴史、日本遺産、文化施設、食文化、地域活性に活動される方を多目的に取り上げる『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』(ラジオ関西)。「兵庫・神⼾のヒストリアン」として活躍する⽥辺眞⼈・園⽥学園⼥⼦⼤学名誉教授と、久保直⼦さんが、パーソナリティーを務める番組が、4⽉9⽇からスタートしました。第1回のテーマは「光秀と兵庫丹波」。⽥辺眞人さんのお話を、同じく番組を担当する久保直⼦さんがまとめました。


◆「光秀と兵庫丹波」
織田信長の名を全国に知らせることになったのは、1560年の桶狭間の戦いでした。
今川義元は現在の静岡県にあたる駿河と遠江、伊豆の一部を勢力範囲に持ち、三河の国を境に尾張の国と隣接し、織田の領域を脅かす存在。そんな大大名、今川義元に信長が奇襲攻撃をしかけ、桶狭間で打ち破っただけでなく、首を取ったということは大きなニュースとなりました。いわば織田信長の全国デビューです。
信長は1567年に奥さんの実家である斎藤道三が作った稲葉山城を攻撃し、攻め落とします。全国デビューから7年かけ、隣国、美濃国の稲葉山へ。このお城の名前を岐阜と名付けました。岐(ぎ)の阜(おか)の意です。教養人だった信長は中国で乱世に岐の山、岐山(ぎざん)という所から出て中国を統一した周の王様がいたことを知っていました。それにちなみ稲葉山をとったときに岐の阜と名付けたのは、最初から天下を狙っているということです。天下布武と称し、軍事力で天下を平和にしようとしました。
この結果、信長は尾張と美濃を手に入れます。日本で一番大きな平野である濃尾平野を手中に収め、農業生産力と三つの大きな河があり、伊勢湾に面すという交通の要所をも手にするのです。
天下布武のためには中部から京都へ行きたいという思いがありましたが信長の名前ではまだ弱く、何か看板になるものが必要でした。そこで足利義昭を将軍にして京都に入りその名で天下に命令を出そうと1568年に上洛します。
ところが近畿に入ると抵抗勢力が!!!
当時の大きな勢力は戦国大名、僧兵、農民です。
近畿地方の一番大きな大名は浅井氏。信長の妹と結婚しているので同盟はできているものの、浅井氏は越前の朝倉氏と結び信長と対立していましたが、1570年姉川の戦いで浅井・朝倉を倒します。
次なる勢力は寺院勢力。姉川の戦いの翌年に寺院勢力の一番大きな比叡山を焼き討ちにします。
浅井が負け、比叡山が焼かれたことにより近畿地方の戦国大名や寺は信長に抵抗できなくなります。
ところが信長は中部から動きませんでした。理由は、中部地方の東、信長の背中を狙っている甲斐国の武田信玄です。信長は京都に入り周辺の大きな勢力を叩いたものの本拠は岐阜稲葉山から移さず武田を警戒していたのです。
その警戒通り1572年に武田信玄がいよいよ甲斐国から諏訪湖へ、天竜川を下って京都へ行こうとやってきます。
信長は、三河から出て遠江、静岡の西部、浜松のお城にいた弟分の家康と結び、武田の勢力と戦いますが三方ヶ原の戦いで完璧に負けてしまいます。
ところが勝った武田信玄は体調を崩し元気回復のため故郷へ帰って行ってしまうのです。そのため信長も家康も命拾いをするわけです。
それでも信長は近畿へ軸足を動かしませんでした。武田が怖い!
信玄が亡くなったあと息子の勝頼が跡を継ぎ、信長と戦ったのが1575年の長篠の戦いです。
ご承知のように大量の鉄砲とバリケード、馬を塞ぐ馬房策を使い信長が武田の軍勢を1575年に長篠の戦いで討ち破ると、もう怖いものはなくなり翌1576年に近畿地方に軸足を移し安土にお城を築きます。
その途中、姉川の戦いの3年後の1573年に浅井長政を滅ぼし、同時にもう看板なしでも自分の力で行けると反信長の動きをしていた15代将軍足利義昭を1573年に京都から追放してしまいます。これが「室町幕府の滅亡」です
安土を本拠地にして、中部・近畿を抑えた信長は東・西へ勢力を伸ばしていきました。
東の勢力は太平洋側に徳川家康。日本海側に柴田勝家という弟分の家老を置き、西は中国の毛利。新しい部下の羽柴秀吉が瀬戸内海、つまり、山陽方面で毛利攻撃をします。
このとき、日本海側山陰方面で毛利に食い込ませようとしたのが信長の新しい家老の一人、明智光秀でした。京都の西、山陰道の入り口が丹波ですから、丹波に入ってくるのです。
当時、丹波には丹波市(旧氷上郡)に赤井直正そして現在の丹波篠山市(旧多紀郡)に波多野秀治がいました。
こういう戦国大名たちと明智光秀が信長陣営の前線司令官として対峙していくことになるのです。
『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年4月9日放送回