直正の生涯とは 『明智光秀を破った「丹波の赤鬼」』著者に聞く(2) | ラジトピ ラジオ関西トピックス

直正の生涯とは 『明智光秀を破った「丹波の赤鬼」』著者に聞く(2)

LINEで送る

この記事の写真を見る(3枚)

【高橋】 それが、なれないんですね……。弘治元(1555)年に香良合戦という一族の争いが起こります。親戚にあたる足立権太兵衛と芦田目留が、直正に反旗を翻します。親戚ですから憎しみの深い戦いになり、そこで直正方は大きな傷を負います。直正の兄は重傷で弘治3(1557)年に亡くなりました。直正自身も7か所の傷を負い黒井城まで撤退しました。

【田辺】 このとき、足立や芦田に負けたわけですか?

【高橋】 そうです。この一族の争いは、直正を黒井城主として成長させる一番の元となったと思います。

【田辺】 それが香良合戦ですね。

【高橋】 そうです。直正は丹波、それから今の福知山や綾部に出て行こうとしますが、丹波の守護は細川氏であり、守護代は内藤氏ですよね。この内藤氏の所に三好氏が松永久秀の弟の松永長頼を入れます。これが内藤宗勝と名乗って、直正と戦うのです。直正も一時、黒井城を内藤氏に奪われ、時家と直正は別所に逃げています。永禄4年に内藤宗勝が若狭の武田氏と朝倉氏の連合軍18000に若狭で負けるんです――要するにこれは三好氏なのですが――そのため内藤氏の勢力は衰えます。そのなかで、若狭の戦いで前線に送られてひどい目にあわされた今の綾部あたりの者が、内藤氏に反旗を翻すんですね。そこに直正がつけこんで味方に引き入れ、内藤宗勝を天田かどこかで殺害します。これは大きな転機ですね。それが永禄8(1565)年のことです。

【田辺】 織田信長がいよいよ動き出す頃、桶狭間の戦い(1560年)のあとですね。

【高橋】 元亀2(1571)年には山名氏の山垣城への侵攻を許してしまいます。どうも丹後の方へ直正が出ていくと――山名の本家は豊岡ですから――山名祐豊が危険を感じ、山垣を襲ったのではないかと思われます。

【田辺】 その反撃のため、竹田城まで行くわけですか?

【高橋】 いや、そうではないんですよ。西の方から毛利に追われる尼子が――山中鹿介ですよね――鳥取とか今の若桜鬼ケ城のあたりを占拠しているんです。すると山中鹿介の使いが、夜久野で「丹波に行くにはどうすれば良いか」と聞くんですね。そのときに黒井城に来て「背後から竹田城を襲ってくれ」と言うのです。山名氏が毛利氏に追われて退去を図ろうとして若桜鬼ケ城にいると、竹田城主の太田垣、それから山名が毛利方となって攻めて行くんですが、それを「背後から突いてくれ」と使いを送っているんです。誰もこの説は言っていませんが、おそらく背後から突いてくれといわれ、竹田城の太田垣を襲って今の竹田城を侵略するんです。

【田辺】 その結果、直正が西は竹田から東は福知山・綾部までを支配下に治めたのですね。直正自身の人物像について、甲陽軍鑑などに書かれているところによると、一言でいうとどういうものでしょうか?


高橋成計『明智光秀を破った「丹波の赤鬼」 ~荻野直正と城郭~』(神戸新聞総合出版センター)
定価 本体2,300円+税
発行日 2020年2月
ページ 240ページ
ISBN  978-4-34-301061-2

神戸新聞総合出版センター
https://kobe-yomitai.jp/book/1007/


『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年4日30日放送回

LINEで送る

関連記事