光秀と丹波篠山市の関わりとは 酒井市長に聞く | ラジトピ ラジオ関西トピックス

光秀と丹波篠山市の関わりとは 酒井市長に聞く

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【酒井市長】 3月に予定していたのですが、新型コロナウイルスの影響で延期になり、今のところ8月22日を予定しているんですが……。

インタビュー収録のようす
インタビュー収録のようす

【田辺】 さて、光秀のお母さんが張り付けになったというのは江戸時代の記録、「八上戦記」や「高城軍記」に出てきます。ただ、信長の時代から時間が経ってから書かれたものです。明智光秀の伝記「明智軍記」も後の時代に書かれたものです。残念ながら信長の時代のことを一番詳しく書いている「信長公記」のなかには、あまりそう言ったことは書かれていません。歴史と、歴史ドラマは違いますからね。

【酒井市長】 しかし、私たちのところの「丹波篠山ふるさとガイドブック」には書いてあるんです。私たちが小学校の頃に遠足で高城山に登りますと、お牧さんが張り付けになった「はりつけ松跡」がありました。

【田辺】 今、その松はどうなっていますか?

【酒井市長】 その松の子どもか子孫がいると言われています。「はりつけの松跡」があってね……。私たちはそう信じてきて、ずっと言い伝えられています。それが原因で、本能寺の変が起きたと。光秀が、お母さんを殺されたことからの恨みと言いますか……。

【田辺】 波多野秀治に「降伏するならば波多野氏を保証する」と光秀が言い、その保障に(光秀の)お母さんを八上城に人質として送り込み、(秀治たちを)安土に連れて行くんです。ところが信長が「切り殺せ」と言って処刑してしまうんです。

【久保】 ひどい話ですね……。

【田辺】 そして、人質だった光秀のお母さんも八上城で殺されてしまう。これが本能寺の変の、明智光秀の心情の原因になったというのは、昔から言われている説ですね。

【酒井市長】 岐阜県の恵那市というところには、全国で唯一のお牧さんのお墓があります。そこで供養祭が毎年行われているんですが、ここでも、お牧さんは丹波篠山の八上城で亡くなったとされているんです。


『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年5⽉21⽇放送回音声

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