【田辺】 朝路池の伝説は?
【小野さん】 朝路池は別名「血の池」ともいい、武将たちが戦ったあとの刀を洗ったなど、いろいろな言い伝えがあり、私も幼い時から大変怖い池だというイメージがありました。
【田辺】 今でも水が溜まっていますか?
【小野さん】 はい。
【田辺】 八上城のある山は高城山です。高城山というだけあって、やっぱりかなり急な険しい高い山ですね。海抜459メートル。この篠山盆地の平地から200数十メートルくらいの高低差があるんです。そうすると、ここをお城にしてたくさんの侍たちが立て籠もって生活するためには飲み水が必要だったはずです。山頂にこの池があるのは本来はそういう目的だったように思いますね。今、この山の山頂部に本丸、二の丸、三の丸他沢山の平坦面が切ってあって、特に北側から攻められる可能性がありますから、北側の登り口に沿って石垣がたくさん残っていますね。
【小野さん】 はい。石垣もたくさん残っております。
【田辺】 そのあたりを見学に来られた方はぜひご覧になっていただいたらと思います。石碑もあるんですか?
【小野さん】 山頂に「波多野秀治公表忠碑」があります。(※八上城主だった秀治をたたえる石碑で住民の寄付により昭和6[1931]年に完成)
【田辺】 氷上郡の赤井と結んで信長に反旗を翻し、一度は明智光秀を打ち破るんです。ところが明智光秀が他の信長の家老たちと共にもう一回攻めてくる。そんな中で赤井直正が病気になって死んでしまうんです(享年50歳)。それが病気かどうかというのはわからないのですが、そのために結局、波多野氏が孤立して包囲され降伏するということになります。そのときに光秀は波多野に信長のところ(安土)に謝りに行けと……。明智光秀としてはちゃんと謝ったら許してもらえるようにするからということで、自分のお母さんを八上城に人質として送り、波多野秀治・秀尚兄弟を安土に送ったんです。ところが信長は波多野を許さず安土で波多野秀治・秀尚兄弟を殺してしまいます。
やかみ校区まちづくり協議会
www.eonet.ne.jp/~yakami-machikyo/
『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年8⽉20⽇放送回音声