昭和62(1987)年、37歳で甲陽園で「ケーキハウス・ツマガリ」を独立開業。津曲さんの妻が「独立したあなたとお菓子屋さんをしたかったから」と言ったのがきっかけ。妻は津曲さんの下積み時代から同じ職場で寄り添っていた。1974(昭和49)年に結婚。しかし開業の本当の理由は「あなた(津曲さん)が明るくて元気だから」だったそうだ。甲陽園で見つかった物件は階段を降りてゆく「穴ぐら」。甲陽園の坂道、さらに階段を下る店。これがお店の持ち味、ロゴマークにもなった。当時住んでいた尼崎市から居を移し、そこをテイクアウト形式のショップにした。開店当時は2000円の買い物をしたお客さんに渡す釣銭がなく、隣の銀行にあわてて借りに行くぐらい、資金もほとんどないままの船出だったという。この店は、これまで電球の交換以外、一度も改装していない。以来34年。「店は、お客さまの思い出であり、従業員の思い出。例えば当時18歳でアルバイトとして働いてくれた女性が、50歳を過ぎ、お子さんが成人してパートタイムで働いてくれる。そしてあの時に戻れる」。だから、店の装いはそのままにしている。ツマガリ・甲陽園本店は、お菓子と思い出の両方を作る場所なのだ。
平成20(2008)年、繊細な工芸技法を駆使した大作「工芸菓子 姫路城」(実物の50分の1)を1年かけて制作、姫路市で開催された全国菓子大博覧会(通称・姫路菓子博)に出品。菓子博のシンボルとなった。砂糖とゼラチンで作った生地を漆喰(しっくい)や石垣、瓦に加工して組んだ木材の表面に塗りる。シナモンをはじめ十種類以上の木の実の粉を使い色付けした。
資料を基に、石垣の段数や屋根下の垂木1本1本に漆喰を塗るなど細やかに再現、戦国時代に名をはせた近江の石積み職人「穴太衆(あのうしゅう)」の技も参考にした。しかし、そこには奇をてらう色や素材は使わなかった。「嫌味(いやみ)はダメ」。商品と同じように、素朴なデザインが素朴な味につながることを身をもって知っているからだ。
津曲さんの素材への徹底したこだわりは、どのパティシエよりも強い。菓子製造業界では原材料を外注するケースが多いが、ツマガリではバターもジャムもチョコレートも自家製、しかも手作り。紀伊半島の地中深くから湧き出た稀少な天然水に、放し飼いの乳牛のミルク。オレンジやりんご、アーモンド、ヘーゼルナッツも厳選。大量生産できなくても、たった1人のお客さまの心に響くお菓子に、という信念は、幼いころ故郷・宮崎で培われた自然の味覚が源流にある。そしてギフトクッキーを個別包装するビニール袋も、密封できる特別なものを使い、可能な限り作りたての風味を失わせないようにしている。商品は甲陽園の本店と、大丸神戸店・梅田店でしか販売をせず、首都圏や地方に店舗を広げない。工房が遠くにあると、お菓子のおいしさに影響が出るので、作る場所は甲陽園本店だけ。素材そのままの風味やおいしさを大切にするため、生菓子はショーケースに出す直前に少しずつ作る。そのため生菓子の販売も甲陽園本店のみ。大丸神戸店・梅田店には置いていない。
座右の銘は「人間味(にんげんみ)」。人と味のはざまに「間」を置いて。洋菓子作りも間(ま)が必要。奥が深いのだという。津曲さんは若いころから周りに「人間味がある」とよく言われた。「人間の味(あじ)とも読めますね。持ち味ですね。人も素材も育ちが違う。考え方、生き方が違う。だから味が違う」。津曲さんは続ける。「私には経営哲学はないんです。宮崎の中学をビリで卒業して汽車に乗り、集団就職。しいて言うなら、見送ってくれた祖母の言葉ですね。『仕事を大事に・人を大事に・女性(祖母の言葉を借りれば「おなご」)を大事に…』人と味との間で、お客様・従業員・女性のみならず洋菓子の素材を含むすべてを大事に。それが人間味となって、お菓子を紡ぎ、歴史を紡ぐ。故郷・宮崎に帰れば、まるでマラソンランナーを出迎えるかのように人が集まる。ビリで宮崎を出て、トップで帰るんですよ」と、少しはにかんだ。
