6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から17日で26年となった。今年は新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言もあり、各地で追悼の催しは縮小や中止を余儀なくされた。コロナ禍で迎えた初めての追悼と慰霊の日に何を思うのか。神戸市の久元喜造市長に聞いた。【聞き手:クマガイタツロウ(ワタナベフラワー)】
――今年は新型コロナウイルスの影響で例年と少し様子が違う1月17日となりました。地震発生時刻の5時46分は東遊園地に行かれましたが、阪神・淡路大震災26年をどのような思いで迎えましたか。
久元 さきほどうかがった東遊園地は、悲しみと亡くなられた方を悼む気持ちであふれていました。ご遺族代表の加賀翠さんとも話をしましたけども、震災で亡くなった6歳のお嬢様、それからその後に亡くなられたご主人の遺影を持って参列されていました。やはり夢中でこの26年間生きてこられたと思うんです。毎年この1.17の日を迎えるとあの時あの瞬間、そして一緒に暮らしたご家族の姿が蘇ってくる。そういう日ではないかと思います。
――震災の経験を知らない世代にどう伝えていくか、が課題となっています。
久元 当時実際に被災をされ、そして活動された方がいま語り部などとして当時のことを語ってくださっています。また神戸市の職員も本当に苦労して、想像を絶する困難と戦った職員が今、幹部として活躍しています。同時に歳月が流れて世代が変わっていく。その新しい世代が、経験した世代の思いを受け継いで震災の記憶を伝えていく試みが始まっています。街が安全であるということがいかに大事か、そして突然訪れる危機に対してどう立ち向かったらいいのか。そういう思いと具体的な行動の方法を引き継いで活動しておられる若い世代がすでに生まれています。これからもあの震災の記憶・教訓が未来の世代に伝えられていくと思います。
――これからの神戸の防災をどう発展させていくのか。市長は今どんなビジョンを描いていらっしゃいますか。
久元 あの震災の後、神戸は直ちにもっと災害に強い街でなければいけないという強い決意で事業をスタートさせました。例えばあの震災の時に、もうほとんどが断水して避難所も悲惨な状態になった。こういうことは絶対にあってはいけないということで「大容量送水管」を翌年の1996(平成8)年から20年の歳月をかけて完成させました。これが今あるおかげで断水しても12時間の生活用水を確保することができることになりました。地震だけではありません。その後も土砂災害、南海トラフ地震対策に取り組んでいます。高潮・地震対策では強い防潮堤や自動的に水門が閉まる仕組みも整備しています。1000年に1回の津波にも耐えられるような高潮・津波対策が出来上がりつつあります。強い決意をもって安全のまちづくりに取り組んでいきたいと思います。
――この神戸の街に暮らし、働く皆さんを僕は一つのチームだと認識しているんですが、チームのリーダーとして最後にお願いします。