織田信長の天下布武を支えた明智光秀 「本能寺の変」の謎にせまる! | ラジトピ ラジオ関西トピックス

織田信長の天下布武を支えた明智光秀 「本能寺の変」の謎にせまる!

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 明智光秀ゆかりの地として注目される兵庫・丹波について、歴史をはじめ多面的に取り上げる『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』(ラジオ関西)。2021年1月21日放送回のテーマは「天下布武の挫折・本能寺の変まで」。番組パーソナリティーで「兵庫・神戸のヒストリアン」として活躍する田辺眞人・園田学園女子大学名誉教授が歴史トークを展開しました。

◆「一所懸命」と「天下布武」

 戦国時代の後半の武将を見てみると“ひとつの所に命を懸け、先祖から伝えられた所領を死守し次の時代に伝える”「一所懸命」と、“軍事的な力で自分の勢力を日本全国に広げ、結果的に戦いをなくす”「天下布武」という形がありました。

 信長は早い時期から天下布武を掲げています。信長の舅が築いた稲葉山城を手に入れ、岐阜と命名。「阜」とは「おか」ですから、「岐」(ぎ)の「阜」(おか)の意。中国の古代に、岐山(きざん)という山の麓から出て中国を統一した武王という王様がいたということを、信長は知っていました。

 信長は“一所懸命”ではなく日本全国に目を向けている“天下布武”を掲げた武将でした。一方、典型的な“一所懸命”の武将といえば、毛利元就です。跡を継いだ孫の毛利輝元に「毛利の領域を死守しろ! 都へ行くとか、天下のことは考えるな!」と言っています。

 信長は、背後の武田が壊滅すると、本拠地と都との間の近江に安土城を築きました。安土とは“安楽国土”だと言われています。

 近畿地方を抑えた信長は、さらに本拠地から東と西の両方向へ進出。東側では日本海側に柴田勝家。その配下に前田利家。太平洋側には弟分の徳川家康を進出させます。西側の中国地方の日本海側に明智光秀、瀬戸内海側に羽柴秀吉を置き、勢力範囲を拡大していきます。

 そんな中で独立不動だったのが、関東方面にいた小田原城の北条一族です。東の北、日本海側には武田信玄と並ぶ武将、上杉謙信と子孫たちがいました。上杉はやがて信長と和睦しますので、もっぱら対立が進むのは西側の中国(地方)。そのため、秀吉は山陽道を通って播磨国へ。そして播磨国の御着城の家老だった黒田官兵衛と出会います。

 やがて毛利との戦いが1578年ころから激しくなり、瀬戸内海方面の摂津国に荒木村重。播磨国に羽柴秀吉を送ります。

 荒木村重が伊丹を本拠にして花隈城と尼崎城で摂津を抑え、秀吉は播磨国に入って御着を越えて1577年には兵庫県の一番西の三日月や佐用まで抑えるんです。


『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2021年1⽉21⽇放送回音声

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