●「長田の春さん」のこと
「長田の春さん」は、道畑佐市著『回顧七十五年』(昭和46・1971年刊)のなかに描かれる市井の人物です。同書は、著者が神戸で暮らした明治、大正、昭和時代の風景や人物を書きとめた随筆集で、その中に「長田の春さん」が登場します。
道畑によると、春さんは、もともと芝居の小道具師で、戦前、長田神社の参道筋で山椒昆布を商うかたわら、人形を売っていました。店の間には棺桶をデンと据えて、一日に何回も出たり入ったりするので、「棺桶の春さん」と呼ばれて親しまれていたそうです。――この春さんが売っていた人形こそがお化け人形だったという説もあるのですが、「長田の春さん」と長田村の「野口百鬼堂」は果たして同一人物なのでしょうか。この謎は未だ解けていません。
●創始期に活躍した「八尾某」「出崎房松」
明治・大正時代の「神戸人形」の中には、「野口百鬼堂」とは明らかに異なるいくつかの作風が見られます。百鬼堂は、自らの商標に“元祖お化け”と旗を立てるように明記していました。それは、この時代、お化け人形を作る人たちが他にもいたことを証立てています。もしかすると、“本家お化け”を標榜する作者がいたかもしれません。
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胴部に比して頭部が大きく、目が離れていて、口の中には象牙製の歯が埋め込まれた作品があります。あごの動きも大きく、どこかのどかで愛らしい一群。白木のままの作品も、黒くぬられたものも見られますが、そのうちのいくつかには、台横や台底に「⼋尾」の焼き印が確認できます。野口がライバル視していたのは、あるいは八尾だったのでしょうか。