兵庫県姫路市香寺町の日本玩具博物館で、8月31日まで「神戸人形賛歌~ミナトマチ神戸が育てたからくり人形~」展が開かれている。尾崎織女・学芸員によるリモート・ミュージアム・トーク。最終回のテーマは「海を渡ったお化けたち」。
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●「小田太四郎」の登場
幾人もの作者たちが競い合うようにユニークで工芸的な作品を生み出していた明治・大正時代、続く大正末期から昭和初期にかけて、神戸人形製作に取り組んだのが小田太四郎です。小田太四郎(1883-1950)は、日露戦争に従軍し、両脚を負傷。家業であった建具仕事がうまくいかずにいたところ、「神戸人形」製作の斡旋を受けたといいます。太四郎の妹が出崎房松に嫁いでいることから、先に「神戸人形」を作っていた房松から多くの技術を学びました。
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昭和4(1930)年、小田太四郎は、神戸へ行幸された天皇へ「神戸人形」を献上する栄に浴します。その折、「神戸人形」についての「天覧品説明書」を作成しますが、下書きと思われる自筆の書類が残されています。それによると、太四郎は、「神戸人形」の沿革について、「明治廿四、五年頃ノ創始ニ係ルモノニシテ、日露戦后、一時非常に盛ナリシモ、現今、市内ノ生産者トシテ一戸ニ過キズ…」としています。製造地および営業所は「神戸市上澤通」(兵庫区上沢通)。原材料は鹿児島県産の柘植(ツゲ)。用途については、「内外小児ノ玩具ニ供セラルルノ外、男女学生ノ勉強ニ依ル疲労ヲ慰スルノ具ニ供セラル」としています。

さらに、年間生産総額は「約七千円」、年間生産数は、なんと「約壱萬個」。1か月に約830個という驚異的な数を製造していた計算になります。いくらか割り引いて考えないといけないかもしれませんが、この量産体制を支えていたのは、太四郎と三人の職人でした。部品については、明石の木工所や姫路ごまの西澤源水氏、小野のそろばん製作所など、兵庫県の伝統産業から生み出される品々を取り寄せて使用していました。太四郎は「小田太四郎商店」のカタログを作成し、販売先を外国にまで広げていきました。カタログ写真には63種類の「神戸人形」が見出されます。

小田太四郎商店の神戸人形を扱っていたギフトショップは、観光地・布引にあった「山本商会」や元町の「キヨシマ屋」、この二店が分かっています。神戸港へ外国船が入るたび、数種類の作品を1~2ダースも注文していく来店客も少なくなかったようです。