76回目の原爆忌 広島「ピカ」の体験もとに平和願い、子どもたちへ語り継ぐ 西宮市原爆被害者の会・会長 武居勝敏さん | ラジトピ ラジオ関西トピックス

76回目の原爆忌 広島「ピカ」の体験もとに平和願い、子どもたちへ語り継ぐ 西宮市原爆被害者の会・会長 武居勝敏さん

LINEで送る

この記事の写真を見る(5枚)

 広島は6日、原爆投下から76年、核兵器の開発から使用まで一切を禁止する「核兵器禁止条約」が発効してから最初の原爆の日を迎えた。厚生労働省によると、広島と長崎で被爆し被爆者健康手帳を持つ全世界の生存被爆者は2021年3月末時点で約12万7000人。高齢化が進み、平均年齢は83.9歳となった。

 7月29日には、国の定めた援護の特例区域外で「黒い雨」の被害に遭った住民84人を被爆者と認めた広島高裁判決が確定(「黒い雨」訴訟)。8月2日から84人への被爆者健康手帳の交付が始まった。こうした中、東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会は、6日の広島の「原爆の日」に選手や関係者に黙禱の呼びかけといった対応はしないことを決めた。

7月14日の広島高裁判決は1審判決に続き、原告全員を被爆者と認め、広島県・市に被爆者健康手帳交付を命じた
7月14日の広島高裁判決は1審判決に続き、原告全員を被爆者と認め、広島県・市に被爆者健康手帳交付を命じた

 関西でも多くの原爆被爆者が思いを伝える活動を続けている。「西宮市原爆被害者の会」会長、武居勝敏さん(75)に思いを聞いた。

・・・・・・・・・・

 私は1945年4月、母親が兄を連れて疎開した島根県の母親のふるさとで生まれました。私と妻の家族15人のうち14人が被爆者で、戦後生まれの妻は被爆二世です。被爆当時、生後4カ月の私には被爆体験の記憶はありませんが、焼け野原が遊び場だった私は生活そのものが被爆体験者として育ちました。広島では原爆のことを「ピカドン」とか「ピカ」といいます。

「西宮市原爆被害者の会」会長・武居勝敏さん
「西宮市原爆被害者の会」会長・武居勝敏さん

 父と13歳上の姉は、当時広島に住んでいました。8月5日、父親が出張していたため広島女学院に通っていた姉は家に一人きりでした。午前8時15分、家に戻っていた姉は、爆音に気づき窓からB29を見上げました。首を引っ込めた瞬間、まるで太陽が落ちてきたかのような白いピカッとした閃光(せんこう)が走り、強烈な地響きと爆風で崩れた屋根の下敷きになり、記憶を失いました。そのまま顔を出していたら3,000度の光線で焼かれて二度と見られぬ顔になっていたかも知れないのです。

 燃え盛る町から次々と人が逃げてきました。「水を下さい」「熱い、熱い」とうめく声。みんな裸同然でぼろをまとい、腕から皮膚を垂らして歩いたのです。子供も皮膚が垂れて母親と手をつなぎたいのに、皮膚が邪魔してつなげませんでした。真夏の太陽の陽射しは強く、飲み水はない。そして山すその斜面から息絶えた人が滑り落ちていく様子を目にしました。まるで地獄絵でした。

 原爆投下の10日後に母は兄と私を連れて広島へ帰り、家族5人は再会しましたが、広島駅に降り立った母は、焼け野原になった街を見て「みな死んだ」と思ったそうです。

 1945(昭和20)年、2発の原子爆弾で広島で14万人、長崎で7万人もの方々が亡くなりました。「戦争は平和をつくり、平和は戦争をつくる」と言います。戦争は命の大切さに気付き、平和は戦争の恐ろしさを忘れる。「災いは忘れたころにやってくる」「歴史は繰り返す」とも言われます。

LINEで送る

関連記事