終戦前日の京橋駅空襲・慰霊祭「あれから76年、若い世代へ語り継ぐために」 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

終戦前日の京橋駅空襲・慰霊祭「あれから76年、若い世代へ語り継ぐために」

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 太平洋戦争の終戦前日、アメリカ軍による最後の大阪大空襲で多くの命が奪われた「京橋駅空襲」。14日、惨劇から76年を迎え、被災者慰霊祭が大阪市城東区のJR京橋駅南口にある慰霊碑前で営まれた。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、今年も昨年に続いて規模を縮小した。

京橋駅空襲で父親を亡くした男性「いつの世も戦争のない社会に」妻とともに
京橋駅空襲で父親を亡くした男性「いつの世も戦争のない社会に」妻とともに

 1945年(昭和20年)8月14日、米軍のB29爆撃機145機が来襲。ターゲットは大阪城の敷地内にあった大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)。6万5000人が動員された東洋一の軍需工場と呼ばれていた。B29爆撃機は650発もの爆弾を次々に投下、造兵廠一帯は壊滅的な被害を受けた。その際、1トン爆弾が近くの国鉄京橋駅を直撃し駅舎は吹き飛んだ。身元が判明した死者は210人、実際の犠牲者は500人~600人と推定されている。

森ノ宮周辺・爆撃の跡
大阪城の南東、森ノ宮付近(画像・照屋盛喜さん提供 右上が砲兵工廠、中央より右の鳥居が森ノ宮神社)
大阪砲兵工廠と大阪城
大阪砲兵工廠(化学分析場)跡と大阪城

 当時12歳、学徒動員されていた照屋盛喜さん(88)は遺体を焼却場へ運んだ。現在は戦争の語り部として活動を続けている。そして76年経ったこの日、平和を学ぶ10代の中高生に出会う。「京橋という、都会の真ん中でこうした悲惨な出来事があったのを忘れないで。この出来事を境に自分のきょうだいや両親に会えなくなった人がたくさんいる。あれから76年。残された私たちは今、平和を守って行かなければならない」と話した。

照屋盛喜さん 戦中・戦後の地域のようすを記した資料を手に
照屋盛喜さん 戦中・戦後の地域のようすを記した資料を手に

 高校3年の18歳の女子生徒は「当時の生々しい声が聞けて、貴重な経験です。このような悲惨な歴史や体験を聞けるのは私たちの世代が最後かもしれません。しっかりと心に留めておかないと、次の世代に伝えることはできないです」と誓った。
 また中学1年の12歳の女子生徒は「去年、小学校の修学旅行で広島へ行く予定だったのですが、新型コロナウイルスの影響で中止になりました。そこで(太平洋)戦争や、広島原爆に関する本を読んで『焼夷弾(しょういだん)』や『空襲』という言葉を改めて学びました」と話した。

「このあたり(京橋駅南口)は遺体の安置所だった」当時を振り返る照屋さん(左)
「このあたり(京橋駅南口)は遺体の安置所だった」当時を振り返る照屋さん(左)
平和学習の一環で慰霊祭を訪れた中高生と照屋さん(右)
平和学習の一環で慰霊祭を訪れた中高生と照屋さん(右)

 京橋駅慰霊祭は1955年(昭和30年)に始まり、今年で67回目となった。子どもたちが平和のシンボル・鳩を掲げる京橋駅前のブロンズ像は1984(昭和59)年、地元・大阪城東ライオンズクラブが寄贈、2021(令和3)年春に慰霊碑のそばへ移設された。

移設されたブロンズ像「平和よ永遠なれ」
移設されたブロンズ像「平和よ永遠なれ」
移設前のブロンズ像 設置は1984(昭和59)年<2020年8月14日>
移設前のブロンズ像 設置は1984(昭和59)年<2020年8月14日>
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