犠牲者の中心は10~20代の若者たちで、その数は全体の6割にあたる約3万5000人。14歳という若さで海に散った少年船員たちも1000人近くにのぼる。岡村さんは「開戦当時、日本は世界で3本の指に入る海運大国。優れた船が多かったが、次々とそれらが沈んでいった。そこを補完するため国が用意したのが、簡素な造りの“戦時標準船”。そこに14歳の少年船員が乗り込み、若い命が奪われた」とため息をつく。
戦況が悪化し、人員、物資の両面で厳しくなった戦争末期には木造船やコンクリート製の輸送船が建造され、実際に駆り出された。「十分な護衛もない中、性能も劣る船に民間の船乗りを乗せる。命を軽く見た行為で危険極まりない。ただ民間船の被害についてまだまだ知られていない。これからも伝えていきたい」と岡村さんは話す。
資料館館長で全日本海員組合関西地方支部支部長の浦隆幸さんは「戦争の記憶を伝えるのが我々の使命。来年こそは、集まっての慰霊式を開きたい」と話した。