波多野氏の栄枯盛衰を映し出す八上城 兵庫の誇る典型的な山城 『歴パ!ひょうご地域遺産バトンリレー』(8) | ラジトピ ラジオ関西トピックス

波多野氏の栄枯盛衰を映し出す八上城 兵庫の誇る典型的な山城 『歴パ!ひょうご地域遺産バトンリレー』(8)

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 兵庫県には、文化庁が認定した「日本遺産」が9件、国指定史跡のお城が22城あり、いずれも全国最多を誇る。また、1000を超す城跡や播磨国風土記など、個性豊かな地域遺産を数多く有している。そうした兵庫の歴史を学びながら、周辺のおすすめスポットを計15回のシリーズで紹介する。

【第8回】兵庫の山城 八上城

 丹波篠山の盟主・波多野氏は、この地の戦国を語る上で欠かせない。織田信長方の明智光秀による「丹波攻め」に際し、西の黒井城主・荻野氏と連携しつつ、何とか食い止めようと必死の攻防を繰り広げた。その根城が八上城だ。江戸時代に天下普請された篠山城の南、「丹波富士」とも呼ばれる、海抜460メートルの高城山に本城、西隣の法光寺山には枝城があり、東西に走る山陰街道を見下ろしていた。

 丹波攻めに対し、最後の当主・波多野秀治は、籠城戦を展開し、1年3か月も猛攻に耐えたものの1579(天正7)年6月に落城、その2か月後には頼みの黒井城も落ち、光秀の丹波攻略が完了した。捕らえられた秀治らは、信長の本拠・安土城下で市中引き回しの末、はりつけに処され、波多野氏は滅亡した。

 しかし地元には「落城後に波多野秀香が、残った兵を集めて2か月間抗戦し、明智光秀の母を、はりつけに処した」とする伝承もあるが史実ではない。

篠山城の三の丸から臨む八上城跡(高城山)

 朝冶山とも呼ばれる高城山は、篠山盆地のほぼ中央南寄りにあり、この地に八上城を築いた波多野清秀は、島根県西部の石見の出身ともされる。「応仁の乱」で手柄を挙げ、永正年間(1504~21)に多紀郡代となって高城山に築城したのが、八上城の始まりだ。波多野清秀の子・元清は、多紀郡内の諸豪族を討伐しては、軍門に下った酒井氏や長沢氏らを重臣に起用して勢力を拡大。1557(弘治3)年には松永久秀に城を奪われる危機もあったが、その9年後には元清の孫・元秀が城を取り戻した。

 戦国末期に、織田信長の家臣・明智光秀が起こした2度目の丹波攻め「八上城合戦」は、1578(天正6)年3月から翌年6月まで1年3か月も続き、波多野氏最後の当主・秀治は篭城戦を展開して明智軍の猛攻に耐えつつも糧道(しょくりょうを運ぶ道)を断たれて飢えに苦しみ、戦死者は500人以上と言いわれている。八上城内では同士討ちもあり、脱出しようとした者が続出した。「城から出てきた者は青く腫れ、この世の者ではない様子だった」と明智側の記録が伝えている。

 八上城跡は、古風な中世式の遺構が往時のまま数多く残る典型的な山城として2005(平成17)年、国史跡に指定。山全体が要塞化していて、東西に長く北西は最も険しく、南は尾根が続くため、攻めにくく守りやすい構造になっています。その八上城と対照的な、江戸時代の平城である篠山城が近くにある立地も特筆されている。

【参考文献】
・兵庫県公式観光サイトHYOGO!ナビ
・文化庁日本遺産ポータルサイト


【兵庫県公式観光サイトHYOGO!ナビ】
【文化庁日本遺産ポータルサイト】

「歴パ!ひょうご地域遺産バトンリレー」アーカイブ記事


◆『歴パ!ひょうごの地域遺産バトンリレー』 2021年10月2日放送分

 

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