比叡山延暦寺(世界文化遺産・滋賀県大津市)を織田信長軍が攻めた「比叡山焼き討ち」から450年。
1571(元亀2)年9月12日、浅井・朝倉連合軍と組んだ延暦寺を、織田信長が大軍で攻め立てた。延暦寺は、平安末期から寺院の勢力拡大に伴い武装化を進め、信長と対立していた。そこで信長は家臣の明智光秀らに焼き打ちを命じ、総本堂・根本中堂(こんぽんちゅうどう)などが焼失、僧侶や民衆ら数千人が犠牲になったとされる。
450年の節目、信長と光秀の子孫が延暦寺を訪れた。延暦寺は最澄が一乗止観院(いちじょうしかんいん)という庵を結んだのが始まり。その最澄は今年(2021年)、没後1200年を迎えた。最澄は敵と味方を分けない「怨親(おんしん)平等」の精神を説いている。
怨親平等とは「怨(うら)みをもって怨みに報ゆれば、怨みは止まず。徳をもって怨みに報ゆれば、怨みはすなわち尽(つ)く」という教え。そこでこの精神を受け継ぐべく、犠牲者の慰霊法要が営まれ、信長と明智光秀の子孫が初めて参列したのだ。その後、鎮魂塚でも祈りを捧げた。
信長の子孫は、会社員の織田茂和氏(43)。光秀の子孫は、歴史学者の明智憲三郎氏(74)。