難読地名「宍粟」の由来も 貴重な史料『播磨国風土記』 「歴パ!ひょうご地域遺産バトンリレー」(15)【シリーズ最終回】 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

難読地名「宍粟」の由来も 貴重な史料『播磨国風土記』 「歴パ!ひょうご地域遺産バトンリレー」(15)【シリーズ最終回】

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 兵庫県には、文化庁が認定した「日本遺産」が9件、国指定史跡のお城が22城あり、いずれも全国最多を誇る。また、1000を超す城跡や播磨国風土記など、個性豊かな地域遺産を数多く有している。そうした兵庫の歴史を学びながら、周辺のおすすめスポットを計15回のシリーズで紹介する。今回が最終回。

【第15回】播磨国風土記・宍禾の郡 雲箇の里

 播磨最北部の宍粟(しそう)市。『播磨国風土記』には「宍禾の郡(しさわのこおり)」とある。7世紀半ば、孝徳天皇の頃、南に位置する「揖保の郡(いいぼのこおり)」から分かれたことが記されている。その宍禾で、地元のイワノオオカミ(伊和大神)が、新羅の王子・アメノヒボコ(天日鉾)と各地で土地を巡って争ううち大きな鹿に会った。その縁で、「鹿会う(ししあう)」をもって「しさわ」と名付けたのだという。(※1)

「播磨国風土記地図」(画像提供:播磨広域連携協議会)

 また、イワノオオカミの妻・コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)の姿がたいそう麗しかったため、ヒメがいた所の地名としたのが「雲箇(うるか)の里」。今の宍粟市一宮町閏賀(うるか)と伝えている。

 2神の争いは最後、高峰山での占いによって決着する。互いに「黒葛(つづら)」(つる性の植物、葛など)を3つずつ投げ合い、落ちた所を領地とするものだったが、アメノヒボコの黒葛は宍禾ではなく但馬に落ちてしまった。ヒボコは今の豊岡市出石町へと去り、出石神社の祭神となった。

 さて、『播磨国風土記』は奈良時代初期に編纂され、平安末期に書写された写本が国宝に指定されている。『続日本紀』の和銅6年(713年)5月2日の条には、令制国(りょうせいこく)つまり各旧国に、次の5項目について調べた報告書を提出せよと命じた旨が記されている。

1) 好(よ)き字を用いた郡と郷の名
2) 銀・銅・染料・草・木・鳥・獣・虫などの物産
3) 土地の肥沃さ
4) 山・川・原・野などの地名の由来
5) 伝承されている旧聞や珍しい出来事

 この5つに分けて当時の国の姿を記した報告書が「風土記」と呼ばれた。

『播磨国風土記』は、霊亀元年(715年)前後に成立したものと推測されるが、伝本は、三条西家所蔵の平安末期の写本しかない。しかも『出雲国風土記』のような“完本に近い形”ではなく、一部に欠落もある。「播磨国」の総説、「明石郡」と「赤穂郡」の全部、それに「加古郡」の冒頭部分が抜けているのだ。


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「歴パ!ひょうご地域遺産バトンリレー」2021年11月20日放送分

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