《阪神・淡路大震災27年》「人を救うのは、人しかいない」激甚被災地、神戸・長田警察署 ベテラン警察官が語り部に | ラジトピ ラジオ関西トピックス

《阪神・淡路大震災27年》「人を救うのは、人しかいない」激甚被災地、神戸・長田警察署 ベテラン警察官が語り部に

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四間警部補(長田署・刑事第二課)「激動の1995年を乗り越えて」
四間警部補(長田署・刑事第二課)「激動の1995年を乗り越えて」

 震災から約1年が経ち、四間さんは立ちくらみや頻脈に襲われる。自律神経に支障をきたすまで、張り詰めた勤務が続いたという。「日ごろの備えや準備も大切。しかし、有事の際には家族を置いてでも業務に全うしなければならないこともある」と語る。今春、定年退職する四間さんは、後輩たちへこうした心構えを説いた。

 山下克久巡査部長(地域第一課)は機動隊員として1月17日の朝を迎えた。経験したことのない”タテ揺れ”の状況に「未曽有の災害警備の始まりだ」と確信したという。阪神・淡路大震災後、兵庫県警のみならず、全国の警察に災害警備活動を行う「広域緊急援助隊」が結成され、その第1期生となった。 9年後の2004年、新潟中越地震が起きた。「ようやく恩返しができる」。そして痛感したことが「人は1人では生きて行けない。全国の警察から派遣された応援のありがたさ、これが心強くもあった。人とのつながり、助け合いがあってこそ生きてゆける」。山下さんは、これを教訓とした。

山下巡査部長(長田署・地域第一課)「人とのつながり、助け合いあってこそ」のちに広域緊急援助隊1期生として
山下巡査部長(長田署・地域第一課)「人とのつながり、助け合いあってこそ」のちに広域緊急援助隊1期生として

 首藤 茂警部補(交通課)は、宝塚市内での交番勤務だった。まずは担当地域の実態把握をして上司に報告を、と交番を出たが、制服姿の警察官、住民に助けを求められると放っておくわけにいかない。バールを持って、倒壊家屋に穴をあけるなど救出活動を続けていると、余震が起き、その穴にはまってしまった。その家屋の1階寝室に、独り暮らしの高齢女性が1人、取り残されていた。救出しようとすると「これで、先立たれた夫のもとへ行けると思ったのに」と責められたことが忘れられないという。しかし、「ほとんどの場面で助けたくても助けられないことばかりだった。遺体を遺族に引き渡すことしかできなかったのに、遺族に『ありがとうございました』と感謝の言葉をかけてもらったことが忘れられない」と振り返る。
 「有事の時ほど、アナログになる」。27年前の震災、携帯電話の普及率も低かった。思うように連絡が取れない。無線機は電池が切れる。途方に暮れることもあった。今でも、思うようにスマートフォンの充電ができないし、燃料は切れる。そうなると、自分の手と装備する機材で何とかしなければならないのだと忠告した。

首藤 茂警部補(長田署・交通課)「有事の際はアナログになる」
首藤 茂警部補(長田署・交通課)「有事の際はアナログになる」

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 阪神・淡路大震災で長田警察署として遺体の検死を行ったのは760体(1995年1月17日~3月31日)。この2か月あまりで、通年の約5倍の数だったことを考えると、その被害の甚大さがうかがえる。

焼け落ちた菅原市場<1995年2月2日撮影>
焼け落ちた菅原市場<1995年2月2日撮影>
まさに”焼け野原”となった長田の街 原型をとどめていない<1995年2月2日撮影>
まさに”焼け野原”となった長田の街 原型をとどめていない<1995年2月2日撮影>

 山中博幸署長は当時、建物が倒壊した兵庫署(神戸市兵庫区)で検死班の応援に当たった。通常ならば検死後、医師立ち合いのもと「検案書」と呼ばれる死亡診断書の作成が必要なのだが、医師の数が足らず、しばらく遺体を放置せざるを得なかったことが辛かったと振り返る。
 そして、焼死した被災者の遺骨が、住所と名前だけが書かれたメモを貼ったブリキ製のバケツに入れられて運ばれてきたことが衝撃的で、「こうした災害では、普段ではありえない事態が生じることを忘れてはならない」と力を込めた。

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